高橋秀山

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高橋 秀山(たかはし しゅうざん、1892年3月20日 – 1978年1月20日)は、日本の柔道家(講道館9段)。

戦前の日本国内における最高峰の柔道大会であった全日本選士権大会を獲得したほか、指導者としても旧制新発田中学校を全国優勝に導いた実績を有す、昭和初期を代表する柔道家・柔道指導者の1人である。

1892年生まれ。実家は雪深い秋田県仙北郡金沢町の禅寺であった
曹洞宗大学に進学して1918年10月に柔道の総本山である講道館へ入門。そこで、空気投で名高い名人・三船久蔵や高橋喜三郎らの指導を受けた
程なくして、曹洞宗大学の昇格問題[注釈 1]の影響で一旦休学して2年後の大学昇格後に再入学する事となり、その間の就職先の斡旋を講道館の鈴木潔治に願い出ると、新潟県の旧制新発田中学校(現・県立新発田高校)を紹介されて「1ヵ月百廿円だが、我慢して行け」と言われ、高橋はこれを快諾した[注釈 2]

1922年11月20日、小雨降る新潟県新発田町に赴いて新発田中学校(芝中)に着任すると、当時の安田校長から「平素は良いが、運動会の時など予定通りの時間に終了した試しが無い」「提灯行列の時などは先生をぶん殴るなど付和雷同的行為に及ぶ生徒がいる」と学校の窮状を訴えられ、「その辺に充分留意のうえ、訓育に力を入れて貰いたい」と依頼されたという
授業は、1年生から3年生までの正課を週各1時間と4年生以上の自由選択週2時間を受け持ち、加えて放課後の部活動を指導する事となった
当時の柔道部の稽古を見た高橋は「殆ど一本技で応用動作が無く、気力も無かった」「試合の結果を問うと、“皆負けました”との返答だった」と後に述懐している。研究・分析する中で、これまで良い指導者に出会えなかった事が体たらくの原因と結論付けた高橋は、部員達を集め「5ヵ年自分と一緒に稽古するなら、必ず県下で優勝させてやる」と宣言し、以後は寝技も含めて連日の厳しい稽古を課した

たかはし しゅうざん

高橋 秀山

1931年全日本選士権大会にて
生誕 (1892-03-20) 1892年3月20日
秋田県仙北郡金沢町
死没 (1978-01-20) 1978年1月20日(85歳没)
死因 老衰
国籍 日本
職業 柔道家、教師
著名な実績 全日本柔道選士権大会優勝
流派 講道館(9段)
身長 160 cm (5 ft 3 in)
体重 70 kg (154 lb)
肩書き 全日本柔道連盟理事 ほか
受賞 勲五等双光旭日章(1967年)

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