高翔こうしょう

高翔こうしょう

高翔といい、字も出身地も不明である。219年、劉備が漢中に進軍したとき随行して、高翔は陽安関に駐屯した。後に、魏の曹真は徐晃とともに陽安関を攻撃してきたので、これを防ごうとしたが敗退した。227年、諸葛亮の北伐に随行し、馬謖に付き従って街亭に赴いた。高翔は王平とともに後方の列柳城を守った。馬謖軍が司馬懿に敗れたため、王平とともに撤退したが、郭淮の攻撃を受け敗退した。231年、魏延、呉班らとともに司馬懿を攻撃して、これを大いに破り、敵の首級を三千・鎧を五千・三千百の弩を得た。高翔は、功績をあげて督前部・右将軍・玄都侯に封じられた。諸葛亮は李厳の官位を剥奪し、梓潼へ流罪とした。このとき上奏文に名を連ねた。伝もなく、『季漢輔臣賛』にもその名はみられない。諸葛亮伝、曹真伝、郭淮伝などに名がしばしば登場している。「高詳」、「高祥」という名でも知られている。

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