鷹木信悟

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鷹木 信悟(たかぎ しんご、1982年11月21日 – )は、日本のプロレスラー。本名:鷹木 信(たかぎ しん)。血液型O型。新日本プロレス所属。

3人きょうだいの末っ子として山梨県の中巨摩郡で生まれる。少年期の鷹木は友人に言わせると「ジャイアンとクレヨンしんちゃんを足して2で割った性格」という自由奔放な性格であり、機械が苦手でゲームを好まない一方で友達と野球やサッカーを行うなど外遊びが好きであった。子供の頃は夏でも冬でも1年中ずっと半袖半ズボンで過ごすというポリシーがあった。小学生時代の鷹木は朝早く登校すると始業までの間に相撲大会を開き自分が常に優勝をかっさらう、2年生から始めた少年野球では代打の切り札として活躍するなど、スポーツで後にプロレスラーとして発揮する能力の片鱗を見せた。何かと負けず嫌いであり、勉強が苦手で小学校のテストで10点から30点しか取れなかったので先生からたっぷり叱られ、それで負けん気に火が付いて勉強を頑張り、漢字テストで満点を連発してクラスで成績1位になり周囲を驚かせることもした。強くなりたいという願望は子供の頃から持っていたが、喧嘩好きというわけではなく、むしろ争い事は嫌いであった。しかし、目立つ存在であったため上級生から目を付けられることがあり、父親からは「先に手を出すな」と言われたが、その代わり、「先にやられたら倍にしてやり返せ。ケンカには絶対負けるな」と言われていた

中学校入学後、野球部に所属する傍らで週2回柔道の道場に通った。元々プロレスには興味があったがのめり込むほどではなく、当時プロレスラーという認識があったのはアントニオ猪木やジャイアント馬場くらいであった。だがバラエティ番組に頻繁に出演する大仁田厚を見て「いちばん知名度があるプロレスラー」という認識が強くなり、中学1年生の時にレンタルビデオ店で借りた大仁田vs天龍源一郎のノーロープ有刺鉄線金網電流爆破デスマッチを見て「男の目指す最終地点はここだ」と思うようになった。本人はこの時の様子を「大仁田さんの熱血ぶり、天龍さんの無敵のオーラに惹かれましたね。本当に2人ともカッコいいと思った。でもあとから気づいたんですけど、僕がビデオを借りた時にはすでに大仁田さんは引退したあとだったんです。それで、ますます伝説のプロレスラーだと思いました。でも大仁田さんは今でもたまに試合していますよね(苦笑)」と話している。中学校の進路希望アンケートに「新日本プロレス、全日本プロレス、FMW」と記載するようなるほどプロレスラー志望が強くなったが、流石に親の反対に遭い、普通に高校進学することにした

山梨県立市川高校在学中は柔道部に所属。柔道の道場でもプロレス技を練習するなどプロレス好きは相変わらずであった。主将を務めて関東大会出場を果たした。しかし全国大会には出場していないので、高校2年生の時に父親から「柔道でインターハイも行けないのに、プロの世界はそんなに甘いもんじゃない」と忠告されたこともある。卒業後はアニマル浜口レスリング道場に通いながら、肉体作りを学ぶためトレーナー専門学校に進学し、肉体作りに必要なトレーニング理論を学んだ。専門学校に入学したのは「プロレスで挫折しても普通に働くことができるように学校へ行け」と父に勧められたためであり、アニマル浜口道場の存在は高校の担任に「どうやったらプロレスラーになれるか知りたければ図書館で調べてこい」と言われて実際に本を見つけて調べたことで知った。アニマル浜口道場時代は76kgの体重を過食により150kgを超えるほど増やし、その後体を絞るための目標としてボディビル大会に出場したが納得のいくような結果が得られなかったといった経験をした。ボディビル大会に関しては翌年にもう一度チャレンジして優勝を果たしており、またレスリングの大会でも結果を残している。浜口道場時代にはまた内藤哲也、KAI、植田使徒などと共に過ごし、スパーリングも行ったことがある

プロフィール
リングネーム 鷹木 信悟
本名 鷹木 信
ニックネーム THE DRAGON
我道驀進
パンピングホーク
身長 178cm
体重 96kg
誕生日 (1982-11-21) 1982年11月21日(36歳)
出身地 山梨県中巨摩郡旧田富町(現:中央市)
所属 新日本プロレス
スポーツ歴 レスリング
柔道
野球
トレーナー アニマル浜口
デビュー 2004年10月3日
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