麻田剛立

麻田剛立

江戸時代中期の天文学者。幼名は庄吉良、名は妥彰(やすあき)、もとの姓は綾部。号ははじめ璋菴(正庵とも、読みはしょうあん)のち剛立。豊後国杵築藩(現・大分県杵築市)の儒学者・綾部安正の子として生まれる。幼い頃から天体に興味を持ち、独学で天文学、暦学、医学を学んだ。1763年(宝暦13)、当時使用されていた「宝暦暦」に記されていなかった日食を独自の計算により予言。これが的中し、麻田の名声は広まった。計算により正確に日食を予想したのは世界的に見ても初のことだったという。その後、杵築藩主の侍医となるが、学問に専心したい麻田は何度も辞職を懇願。しかし聞き入れられず、ついに脱藩し、「麻田」と姓を変え大坂で医師をしながら天文学の研究に没頭した。1778年(安永7)には、オランダから輸入した高性能の反射望遠鏡を用い月面を観測、日本で初めてとなるクレーターを含む月面観測図を記した。なお、この偉業を称えて「Asada」と命名されたクレーターが月面に存在する。麻田の業績としてもうひとつ知られるのが、1619年にドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーによって発見された惑星運動に関する法則「ケプラーの法則」を日本に伝わる前に独自に発見したこと。晩年は私塾「先事館」を開き後進の育成にも尽力、高橋至時、山片蟠桃、間重富ら多くの優秀な人材を輩出した。著書に『消長法』など。麻田を題材にした作品に『月のえくぼ(クレーター)を見た男 麻田剛立』(鹿毛敏夫著)。

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