黄忠漢升こうちゅうかんしょう

黄忠漢升こうちゅうかんしょう

黄忠、字を漢升といい、南陽郡の人である。子は黄叙。荊州の牧、劉表は黄忠を中郎将に任じ、劉表の従子の劉磐とともに長沙の攸県を守らせた。曹操は荊州を撃ち破ると、かりに裨将軍の官につけ、そのまま元の任務を取り行わせ、長沙太守の韓玄の統制下においた。劉備が南方の諸郡を平定すると、黄忠は臣下の礼をとり、つき従って蜀に入国した。葭萌より任を受け、引き返して劉璋を攻撃した。黄忠はつねに真っ先に駆けて陣地をおとし、その勇敢さは三軍の筆頭であった。益州が平定された後、討虜将軍に任命された。219年、漢中の定軍山において、夏侯淵を攻撃した。夏侯淵の軍勢は非常に勇猛果敢であったが、黄忠は矛を突き立て、あくまでも進撃し、率先して士卒を励まし、鐘と太鼓は天を振るわせ、歓声は谷を動かすほどで、法正の指示を受けて、一度の戦闘で夏侯淵を斬り、夏侯淵の軍は大敗北を喫した。のちに、征西将軍に昇進した。同年、劉備は漢中王になり、黄忠を後将軍に起用するつもりであったが、諸葛亮が、「張飛・馬超らは彼の活躍を見ているので、文句は言わないでしょうが(荊州に残った)関羽将軍はそのことを知らないので、納得しないでしょう」と進言をした。劉備は、自分で関羽に説明するとして、かくて関羽らと同等の官位につけ、関内侯の爵をたまわった。220年、逝去した。享年不明。同じ巻に纏められた関羽・張飛・馬超・趙雲ら四人と比べても黄忠伝は記述が少なく、裴松之による注釈も無い。他に彼の人柄を表す資料として、『三国志』蜀書の末尾に記載されている『季漢輔臣賛』の9番目に名前があり、「義に厚い壮士」であったとされている。小説『三国志演義』では、60歳を過ぎた老将でありながら敵将を一騎討ちで討ち取る場面が多い。史実においては、劉備に仕えていた頃の黄忠が老人であったかどうかも定かではない。わずかに費詩伝において、関羽が黄忠を「老兵」と呼んでいる記述が存在するだけである。しかしながら、老いるともなお、勇猛果敢な活躍を見せる『演義』での黄忠の記述から、老いてますます盛んな人をさして老黄忠と呼ぶようになった。また、弓の名手としてその腕前を披露する姿も広く知られている。関羽率いる劉備軍が長沙に攻め寄せると韓玄の配下としてこれに応戦する。その際関羽と一騎討ちで互角に戦うが、馬がつまづき危うく討ち取られる場面で関羽は黄忠の武勇を認めこれを見逃す。これに恩義を感じた黄忠は再戦時に関羽の兜の緒に弓を命中させる事で、関羽の命を奪うことなく撤退させるが、韓玄に敵軍に内応していると疑われ捕縛され処刑されそうになる。魏延の反乱で韓玄が死亡すると劉備に仕える。漢中攻略時には同じく老将である厳顔とコンビを組み、張コウ・夏侯尚らを破り、韓玄の弟で黄忠を兄のかたきと狙う韓浩を討ち取っている。その後は定軍山で夏侯淵を討ち取り、漢中平定後に五虎大将軍の一人となった。このとき関羽は以前に黄忠と一騎打ちを繰り広げているにも関わらず、黄忠を老将と侮り同列扱いされるのを嫌っている。史実では220年に亡くなっているが、『演義』では222年に行われた夷陵の戦いにも参加している。その最中、劉備が関興や張苞といった若者を称え、老兵を軽んじる発言をしたため、部下十数名で潘璋の陣へと斬り込んだ際に馬忠の矢にあたり、それが元で75歳で死亡している。

反応