黒田忠之

黒田忠之

江戸時代前期の大名、筑前国福岡藩の2代藩主。江戸時代における「三大御家騒動」のひとつ「黒田騒動」の原因をつくった藩主として知られる。父は戦国大名で福岡藩初代藩主の黒田長政、祖父は名軍師として名高い黒田官兵衛(如水、孝高)。幼名は万徳丸、忠長、忠政、忠之と改名した。官位は従四位下筑前守、右衛門佐。大坂冬の陣では江戸城留守居を命じられた父・長政のかわりに1万の大軍を率いて徳川家康方に参加、父・長政の死後、家督を継いで22歳の若さで福岡藩43万石の2代藩主となった。忠之はわがままで派手好きな性格だったといわれ、自分のお気に入りを側近にして重用するなど勝手なふるまいが目立った。そのため父・長政時代からの重臣と対立、ついに先代から藩政を託されていた家老・栗山大膳(利章)によって「忠之に謀反の疑いあり」と幕府に訴えられてしまう。黒田家は改易の危機に立たされたが、幕府の裁定の結果、忠之に謀反の疑いはないとしてお咎めはなかった。なお、主君を訴えた栗山大膳は責任を負い陸奥国盛岡藩へ配流となった。この「伊達騒動」後、古老らの諫言に忠之も耳を貸すようになり、騒動は終息した。墓所は福岡県福岡市博多にある東長寺。

反応