井伊直弼

大老を就任後、開国施策を強行。井伊直弼、曰く「臨機応変に対応すべきで、積極的に交易すべきである」。孝明天皇の勅許を得るという最も重要な手続きを踏まぬまま、アメリカとの日米修好通商条約に調印。さらに国内の反対勢力に対して、…

鷹司輔煕

孝明天皇時代の関白。父はやはり関白である鷹司政通。 右大臣時代に三条実万らとともに、戊午の密勅を孝明天皇から引き出すよう宮廷内で運動したため、安政の大獄で失脚、謹慎となる。その後、復帰し関白に就任するも、尊王攘夷派が宮廷…

久我建通

公武合体を模索し和宮降嫁に尽力したため、尊王攘夷派の攻撃対象となった四奸二嬪のひとり(ほか、岩倉具視(左近衛権中将)・千種有文(左近衛権少将)・富小路敬直(中務大輔)、今城重子(少将掌侍)・堀河紀子(右衛門掌侍))。 孝…

中山慶子

孝明天皇の側室であり、皇子祐宮(さちのみや、後の明治天皇)の生母である。権大納言・中山忠能の次女。

中山忠能

明治天皇の外祖父にあたる。公家、政治家。王政復古のクーデター後、議定を務めていた。和宮と徳川家茂の縁組の御用掛に任じられるなど、公武合体派の公家としてしられる。禁門の変では長州藩を支持していたため、長州藩が政争に敗れた後…

西園寺公望

第12・14代内閣総理大臣。明治時代〜大正時代の代表的な政治家である。 公家として、幼少時は年齢が近かった祐宮(明治天皇)の遊び相手をたびたび務めていた。 戊辰戦争では、山陰道鎮撫総督、会津口征討大参謀として各地を転戦。…

孝明天皇

1846年に即位した第121代天皇。仁孝天皇の第四皇子。在位21年にして崩御。 ペリー来航後は、より強硬な攘夷論者となり、開国の幕府への発言力を高める。 幕府老中首座・堀田正睦が求めた日米修好通商条約の勅許を、孝明天皇は…

美濃部達吉

大正デモクラシーの代表的理論家。美濃部が大正元年に発表した天皇機関説(「君主は国家におけるひとつの、かつ最高の、機関である」)は政党政治の理論的拠り所となる。

三輪田米山

明治時代の書家。伊予三筆のひとり(ほかは、僧明月、僧懶翁)。「酒を飲まぬと、筆をとること難し」と自身の日記に残したとおり、酒を飲み大胆な書風を得意とした。明治天皇に対する書の指導をしたことでもしられる。

飯野吉三郎

「日本のラスプーチン」と呼ばれた新興宗教家。宗教団体「大日本精神団」を設立した。同じ岐阜県出身であった教育者・歌人である下田歌子のコネクションから、政財界や皇室にパイプを持つようになる。祈祷と予言を駆使し、絶大な影響力を…

乃木静子

陸軍大将・乃木希典の妻。20歳のとき、同郷の伊地知幸介や野津鎮雄らの勧めにより、乃木希典と結婚(乃木は鹿児島の女子しか嫁に貰わぬ、と常々言っていた)。 日露戦争に出征する夫・希典と2人の息子(勝典・保典)らに、戦死したと…

津田三蔵

警察官、軍人。大津事件とよばれるロシア帝国皇太子ニコライ暗殺未遂事件を起こす。津田は来日中の皇太子を沿道警備の職務中に突然サーベルで斬りつけた。事件を受けて、ロシアの侵攻が始まるのではないかと日本国中は震撼。 外国の皇族…

明治天皇

日本の第122代天皇。孝明天皇の第2皇子。在位は1867年〜1912年。16歳で即位。明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝とも呼ばれた。即位中は、大政奉還や王政復古、大日本帝国憲法の制定など、近代日本の道筋をつける重要な出来事が…

乃木希典

陸軍大将。乃木大将、乃木将軍と呼ばれる。日露戦争では、難攻不落とよばれた旅順要塞を攻略したことから、海軍の東郷平八郎とともに、英雄とされる。一方で、旅順要塞攻略の最終的な戦術立案は児玉源太郎によるものであることや、死傷6…

穂積八束

(1860~1912) 法学者。陳重の弟。愛媛県出身。東大教授。君権絶対主義の立場から民法典論争をまき起こし、民法実施延期派の急先鋒となる。また、美濃部達吉の天皇機関説にも攻撃を加えた。著「憲法大意」など。

井上毅

(1843~1895) 政治家。熊本藩士。伊藤博文の下で大日本帝国憲法・皇室典範の起草にあたった。その他、教育勅語・軍人勅諭など多くの勅令・法令の起草に関与。

児島惟謙

(1837~1908) 明治時代の裁判官。宇和島藩出身。大審院長の時ロシア皇太子ニコライが襲われた大津事件の裁判にあたり、犯人津田三蔵の死刑を要求する政府の圧力をしりぞけて無期徒刑とし、司法権の独立を守った。

伊藤博文

(1841~1909) 政治家。長州の人。初名は俊輔。松下村塾に学び、討幕運動に活躍。明治政府にあって、帝国憲法の制定、天皇制の確立に尽力。初代首相・枢密院議長・立憲政友会総裁などを歴任。組閣四度に及び、その間日清戦争を…