蒋済子通しょうさいしつう

蒋済、字を子通といい、楚国平阿県の人である。子は蒋秀がいる。出仕して郡の計吏、州の別駕となった。208年、孫権が軍勢を率いて合肥を包囲した。そのとき、魏の大軍は荊州を征討していたが、疫病の流行があった。そのため将軍の張喜…

荀攸公達じゅんゆうこうたつ

荀攸、字を公達といい、広陵郡の人である。甥は荀彧、子は荀緝、荀適がいる。祖父の荀曇(じゅんたん)は広陵太守であった。荀攸が幼いときに父荀彝を失った。荀曇が亡くなると、もと下役の張権が荀曇の墓守りをしたいと願い出た。荀攸は…

劉曄子揚りゅうようしよう

劉曄、字を子揚といい、淮南郡成悳県の人である。兄は劉渙、子は劉寓、劉陶がいる。漢の光武帝の子阜陵質王劉延の後裔である。父の劉普と母の脩とは、渙と曄をもうけた。劉曄が七歳のとき、母は病気に苦しんだ。臨終のとき二人にいいきか…

董昭公仁とうしょうこうじん

董昭、字を公仁といい、済陰郡定陶県の人である。子は董冑、弟は董訪がいる。孝廉に推挙され、県の長、柏人の令に任命された。その後、袁紹は董昭を参軍事とした。袁紹が公孫サンを界橋に迎え撃ったとき、鉅鹿の太守李邵をはじめ郡の役人…

臧覇宣高ぞうはせんこう

臧覇、字を宣高といい、泰山郡華県の人である。子は臧艾、臧舜らがいる。父の臧戒は県の獄長となったが、法をたてに太守がかってに人を殺そうとしたのを聞き入れなかった。太守はたいそう腹を立て、臧戒を逮捕して役所につれてこさせた。…

許褚仲康きょちょちゅうこう

許チョ(チョは「ネ偏」に「者」)、字を仲康といい、ショウ(「言偏」に「焦」)国ショウ県の人である。兄は許定、子は許儀がいる。身長八尺余、腰まわりは大きくて十囲(囲は五寸)あって相撲取りのような体格で、容姿はおおしく毅然と…

呂虔子恪りょけんしかく

呂虔、字を子恪といい、任城郡の人である。子は呂翻がいる。曹操はエン州にいるとき、呂虔が胆略の持主だと聞いて従事にとりたて、家兵をひきつれ湖陸を守らせた。襄賁校尉の杜松の配下の住民らが反乱し、昌キと手を結んだ。曹操は呂虔を…

文聘仲業ぶんぺいちゅうぎょう

文聘、字を仲業といい、南陽郡宛県の人である。子は文岱、養子に文休がいる。劉表の大将として北方の防衛に当らせられた。劉表が死ぬと、その子の劉ソウが立った。曹操が荊州を征討すると、劉ソウは州をあげて降伏したが、文聘を呼んで行…

典韋てんい

典韋、字は不明で伝わっていない、陳留郡己吾県の人である。子は典満がいる。容姿はりっぱで、筋力は人なみはずれて優れ、固い節義とおとこぎの持ち主だった。襄邑の劉氏は李永と仇敵の間がらであったが、典韋は彼のために報復してやった…

李通文達りつうぶんたつ

李通、字を文達といい、江夏郡平春県の人である。子は李緒、李基がいる。おとこぎをもって長江から汝水の地城で有名だった。同郡の人陳恭とともに朗陵において兵をあげた。多くの人々が彼に身を寄せた。当時、周直という者がいて、二千余…

李典曼成りてんまんせい

李典、字を曼成といい、山陽郡鉅野県の人である。従父は李乾、子は李禎がいる。若いころ学問が好きで、軍事は好まなかった。そして先生について『春秋左氏伝』を読み、広く種々の書物を見た。初平年間、軍勢をひきつれ曹操につき従い、寿…

徐晃公明じょこうこうめい

徐晃、字を公明といい、河東郡楊県の人である。子は徐蓋がいる。郡の役人となり、車騎将軍楊奉に従って賊を討伐し功績を立て、騎都尉に任命された。李カク、郭汜が長安を混乱に陥れると、徐晃は楊奉に、天子とともに洛陽に帰ることを進言…

張郃儁乂ちょうこうしゅんがい

張コウ(コウの字は合におおざと偏)、字を儁乂といい、河間郡の人である。子は張雄らがいる。後漢、募集に応じて黄巾を討伐し、軍の司馬となり、韓馥に所属した。韓馥が敗北すると、兵をつれて袁紹に身を寄せた。袁紹は張コウを校尉とし…

于禁文則うきんぶんそく

于禁、字を文則といい、泰山郡鉅平県の人である。子は于圭がいる。黄巾の乱が起こると、鮑信は兵隊を呼び集めた。于禁は彼につき従った。曹操がエン州を治めることになると、于禁はその仲間とともに出頭し都伯(隊長)となり将軍王朗に所…

楽進文謙がくしんぶんけん

楽進、字を文謙といい、陽平郡衛国県の人である。子に楽チンがいる。身体つきは小柄であったが、きもったまのはげしさによって曹操につき従い、帳下の吏(記録官)となった。曹操は出身の郡に帰して兵を募集させたが、千余人を手に入れ、…

張遼文遠ちょうりょうぶんえん

張遼、字を文遠といい、雁門郡馬邑県の人である。兄に張汎、子に張虎がいる。本来、聶壱(漢代に匈奴との交易を利用して匈奴をだまして陥れようとした男)の子孫であるが、復讐を避けるために姓を変えたのである。若いころ郡吏となった。…

郭嘉奉孝かくかほうこう

郭嘉、字を奉孝といい、頴川郡の人である。子は郭奕がいる。郭嘉は若年にして将来を見透す識見をもっていた。天下が乱れて、二十歳のころより姓名事跡をくらまし、ひそかに英傑たちと手を握り、俗世間とはつきあわなかった。そのため、当…

程昱仲徳ていいくちゅうとく

程イク(イクは、日かんむりに立)、字を仲徳といい、東郡東阿県の人である。元の名は程立であった。子は程武、程延などがいる。身長八尺三寸、あご・ほおに見事なひげを生やしていた。黄巾の乱が起きると、県丞の王度は朝廷にそむき、彼…

賈詡文和かくぶんわ

賈ク(クは言偏に羽)、字を文和といい、武威郡の姑臧県の人である。子は賈穆、賈訪がいる。若いとき認める人はいなかったが、ただ漢陽の閻忠だけは彼を評価し、賈クには張良や陳平(前漢高祖の策士)のような奇略があるといっていた。孝…

荀彧文若じゅんいくぶんじゃく

荀イク(イクは「或」の斜めの線に線を二つ加えたもの)、字を文若といい、頴川郡頴陰県の人である。兄に荀衍、弟に荀シン、子に荀惲、荀ギ、荀粲などがいる。容姿端麗な偉丈夫であった。荀イクが若かったころ、南陽の何ギョウは彼を特別…

曹洪子廉そうこうしれん

曹洪、字を子廉といい、曹操の従弟である。子は、曹馥がいる。190年、曹操は、董卓討伐の義兵をあげ、董卓の大将の徐栄によって撃ち負かされた。曹操は乗っていた馬を失い、敵の追撃ははなはだ急であった。このとき、曹洪は馬から下り…

曹仁子孝そうじんしこう

曹仁、字を子孝といい、沛国の人である。曹操の従弟で、曹純の兄。子は、曹泰、曹偕、曹範がいる。若いときから、弓術・馬術・狩猟を好んだ。後年、豪傑がいっせいに蜂起したとき、曹仁もまたひそかに若者を結集して、千人余りを味方につ…

夏侯淵妙才かこうえんみょうさい

夏侯淵、字を妙才といい、夏侯惇の族弟であった。子は、夏侯衡、夏侯覇、夏侯称、夏侯威、夏侯栄、夏侯恵、夏侯和。曹操が故郷にいたころ、県の長官にまつわる事件で罪になったことがあった。夏侯淵は身代わりとなって重い罪を引き受けた…

夏侯惇元譲かこうとん(かこうじゅん)げんじょう

夏侯惇、字を元譲といい、沛国ショウ[言焦]県の人で、夏侯嬰(前漢黄祖の将軍)の後裔である。曹操と夏侯淵の従兄弟に当たる。子は、夏侯充、夏侯楙、夏侯子臧、夏侯子江。弟に夏侯廉がいる。演義では夏侯恩という弟も登場する。十四歳…

曹叡元仲そうえいげんちゅう

204年(206年とも云われる)、文帝曹丕と甄氏の間に生まれた長男。生まれて以来、曹操は可愛がりいつも側においた。220年、数え15歳で武徳侯、翌年に斉公、222年には平原王に封ぜられた。226年、父の文帝・曹丕が病床で…

曹丕子桓そうひしかん

187年の冬、曹操と卞氏の間にショウ[言焦]で生まれた。211年、五官中郎将・副丞相となった。217年、魏の太子に立てられた。220年、曹操が崩御すると位を継いで丞相・魏王となった。賈クを大尉、華キンを相国、王朗を御史大…

曹操孟徳そうそうもうとく

曹操は若くして機知・権謀に富んだが、放蕩を好み素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。ただ大尉の橋玄は「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救う事はできない。天下をよく安んずるのは君である」などと曹操…