司馬懿仲達しばいちゅうたつ

司馬懿、字を仲達といい、河内郡温県孝敬里の出身である。司馬防の次子、子は司馬師、司馬昭、孫に司馬炎、司馬攸らがいる。司馬氏の祖は、高陽の子重黎から出た。重黎は、軍事職である祝融に就いた。唐王朝、虞王朝、夏王朝、商王朝と経…

李儒文優りじゅぶんゆう

李儒、字を文優といい、司隷馮翊郡郃陽県の人である。184年、黄巾の賊が反乱してから郃陽の民衆がこれに呼応して反逆した。県令曹全がこれらを討って鎮圧し、県の名士らを起用したので李儒らは召しだされた。185年10月、李儒は、…

樊稠はんちゅう

樊稠といい、涼州の人である。董卓の配下となり、董卓が中央政権を握ると、軍事において徐栄、胡軫、牛輔らと同じ待遇を受けた。192年、董卓が呂布と王允らに殺害されると、李傕につき従って長安を攻撃し、王允らを処刑した。李傕と共…

笮融さくゆう

笮融といい、丹楊郡の人である。初め数百人を集めて長江を渡り、徐州の陶謙に身を寄せた。笮融に広陵・彭城の物資運漕の監督をさせたところ、勝って気ままにふるまって人を殺し、広陵・下邳・彭城三郡の貢納品を自分の物にして資力を蓄え…

孫崇賓碩そんすうひんせき

孫崇は字を賓碩といい、北海郡安丘の人である。家はもともと、それほど豊かではなかった。後漢の桓帝の時代、中常侍の唐衡・徐璜・具援らは、桓帝と謀って大将軍梁冀を誅した功によって同日に候に封じられ、その権威は天子並みになった。…

淳于瓊仲簡じゅんうけいちゅうかん

淳于瓊、字を仲簡といい、豫州潁川郡の人である。188年10月、大将軍何進の上奏にて、霊帝自ら平楽観で西園八校尉を抜擢して任命した。曹操、袁紹らも含めて淳于瓊が佐軍校尉となった。霊帝が崩御すると、董卓が専横して政権を握った…

田豊元皓でんほうげんこう

田豊、字を元皓といい、鉅鹿郡の人とも渤海郡の人ともいわれる。初め太尉府に召され、茂才に挙げられて侍御史となったが、朝廷では宦官が跋扈し、賢人が害を被っていたので、官を棄てて家に帰った。190年、袁紹は董卓征討の義兵を挙げ…

董承とうじょう

董承といい、字も出身地も不明である。董承は牛輔の部曲として仕えていた。193年、董卓が殺されると、李傕・郭汜ら部将たちは遠征先から引き還して長安に入り、第二の董卓として暴威を揮った。彼らはやがて争いを始めたが、これも董卓…

何顒伯求かぎょうはくきゅう

何顒は字を伯求といい、南陽郡襄邑の人である。若いころ、郭泰・賈彪らと洛陽に遊学し、太学で名を挙げた。これによって朝廷の名臣である太傅の陳蕃・司隷校尉のの李膺らは、皆何顒と深くつきあった。党錮の事件が起きた時、何顒の名もそ…

伍孚徳瑜ごふとくゆ

伍孚は字を徳瑜といい、汝南郡呉房の人である。若い頃から高い節義を持っており、郡に仕えて門下書左になった。伍孚の本邑の長が罪を犯したことがあった。汝南太守は伍孚に逮捕状を作成させ、配下の役人を派遣してこれを捕まえよと命じた…

蔡邕伯喈さいようはくかい

蔡邕は字を伯喈といい、陳留郡圉県の人である。子は蔡琰、従弟は蔡谷、外孫は羊祜、羊徽瑜らがいる。郡の著姓の子だった。若いころ、太傅の胡廣に師事した。辞章・数術を好み、また音律をよく解した。170年、司徒橋玄の府にまねかれ、…

張邈孟卓ちょうばくもうたく

張邈、字を孟卓といい、東平郡寿張県の人である。弟は張超がいる。若い時からおとこだてとしてならし、困っている者を救い、せっぱつまっている者を助けるためには、家財を傾けて惜しまなかったので、大勢の人々が彼のもとに身を寄せた。…

馬騰寿成ばとうじゅせい

馬騰、字を寿成といい、扶風郡茂陵県の人である。先祖は後漢の名将馬援。父は馬平、子は馬超、馬休、馬鉄、甥に馬岱がいる。馬騰は若いころ貧乏に苦しんで、いつでも彰山に入って材木をきりだしては市場に行って売っていた。涼州刺史耿鄙…

張角ちょうかく

張角といい、冀州鉅鹿郡の人である。弟に張宝、張梁らがいる。張角の出身地鉅鹿郡はショウ水に近く、この辺りは大洪水で河道を南北に上下させる黄河の氾濫に、昔から振り回されてきた。時にはショウ水は黄河に連なって、その支流と化した…

董卓仲穎とうたくちゅうえい

隴西郡臨洮の出身。字は仲穎(ちゅうえい)。父は董君雅、兄に董擢、弟に董旻がいる。名は不明だが早世した子、甥に董璜、孫娘に董白がいる。粗暴で、知略に優れ、武芸に秀で、腕力が非常に強く、馬上で左手と右手のどちらでも弓を引くこ…

張苞ちょうほう

張苞といい、字、出身地は不明である。父は張飛、弟は張紹、姉か妹は敬哀皇后張氏、張皇后、子は張遵がいる。三国志に伝がなく、若くして父より先に死去しており、弟張紹が後を継いだ。『三国志演義』では、点鋼矛の使い手で張飛に劣らぬ…

鄧芝伯苗とうしはくびょう

トウ芝(登におおざと[鄧])、字を伯苗といい、義陽郡新野県の人であり、漢の司徒トウ禹の末裔である。子はトウ良がいる。後漢末、蜀に入ったが、知遇をうけるまでには至らなかった。当時、益州従事の張裕が人相を見るのがうまかったの…

来敏敬達らいびんけいたつ

来敏、字を敬達といい、義陽郡新野県の人である。後漢の来歙の末裔である。父は、霊帝の代に司空の来エン、子は、来忠がいる。漢末の大乱に遭遇し、来敏は姉について荊州に逃げた。姉の夫の黄エンの妻は劉璋の祖母の甥であったので、劉璋…

孟光孝裕もうこうこうゆう

孟光、字を孝裕といい、河南郡洛陽県の人である。後漢の大尉孟郁の一族である。霊帝の末年、講部吏となった。献帝が長安に遷都すると、そのまま蜀へと逃げこんだ。劉焉父子は彼を客礼をもって待遇した。劉備が益州を平定すると、議郎に任…

周羣仲直しゅうぐんちゅうちょく

周羣、字を仲直といい、巴西郡ロウ(ロウは門構えに良)中県の人である。父に周舒、子に周巨がいる。幼いころから周舒より図讖(としん)学を教えられ、自然現象などから未来の兆候を探る学問に専念した。庭内に小楼を作り、家が豊かで奴…

董和幼宰とうわようさい

董和、字を幼宰といい、南郡枝江県の人である。子は董允がいる。その先祖はもと巴郡の江州の人であった。後漢末期、董和は一族をひきいて西方に移住した。益州の牧劉璋は彼を江原の長、成都の令に任命した。蜀地方は豊かであって、当時風…

許靖文休きょせいぶんきゅう

許靖、字を文休といい、汝南郡平輿県の人である。従兄弟は人物評で有名な許劭、子は許欽がいる。若いころ従兄弟の許劭とともに名を知られ、いずれも人物評価によって評判をたてられたが、感情的にしっくりいかなかった。許劭は郡の功曹と…

関羽雲長かんううんちょう

関羽は字を雲長という。もとの字は長生といい、河東郡解県の人である。本籍から琢県に出奔した。見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため「美髯公」などとも呼ばれる。子は関平・関興。劉備が故郷で徒党を集めたと…

諸葛亮孔明しょかつりょうこうめい

司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が…

劉備玄徳りゅうびげんとく

琢(たく)郡琢県の出身。祖父は劉雄、父は劉弘である。祖父は孝廉に推され、郎中となり、最終的には兗州東郡范県の令となった。父も州郡の官吏を勤めたが、劉備がまだ幼い頃に死んだために土豪(現地の小豪族)の身分でありながら劉備の…

趙達ちょうたつ

趙達といい、河南郡の人である。若いころ、後漢の侍中單甫に就いて学問を修めた。東南の地方は王者の気があるので、難を避けられると考えて、長江を渡った。趙達は「九宮一算の術」という占術を会得して、飛んでいる蝗の数や、隠された品…

劉基敬輿りゅうきけいよ

劉基、字を敬輿といい、東莱郡の牟平の人である。父は後漢の揚州刺史劉ヨウ、弟は劉鑠、劉尚、娘は孫覇の妻である。父の劉ヨウは孫策に敗れ、豫章に付き添って滞在していた。年は十四であったが、劉ヨウが亡くなり、喪に服して少しも礼に…

董襲元代とうしゅうげんだい

董襲、字を元代といい、会稽郡の余姚の人である。身の丈は八尺(190センチ余り)、人なみはずれた武力があった。孫策が太守として会稽郡にやってきたとき、董襲はそれを高遷亭で迎えた。孫策は、彼に会ってその人物の立派さに感心をし…

孫権仲謀そんけんちゅうぼう

孫権は、背は高いが胴長短足で、角張った「あご」と大きな口に紫髯(赤ひげだとされる)の持ち主だったと云われる。また、『三国志演義』では碧眼(蒼い目)を持つとも描かれ、「碧眼児」と呼ばれる。父の孫堅も「仲謀は只者では無い、貴…

楊修徳祖ようしゅうとくそ

楊修、字を徳祖といい、弘農郡華陰県の人である。父は大尉楊彪、子は楊囂、孫は楊準がいる。楊脩とも表記される。建安年間、孝廉に推挙され、郎中に任命されたが、曹操は要請して倉曹属主簿に任命した。この当時、軍事にも国政にも事が多…

侯成こうせい

侯成といい、字も出身地も不明である。侯成の食客が侯成の馬15頭を奪い逃げたことがあって、侯成は追いかけて馬を奪い返し、同僚たちから祝賀された。後に呂布の部下として随従した。侯成は酒と猪肉を同僚に振る舞おうとを考え、先に呂…

孔融文挙こうゆうぶんきょ

孔融、字を文挙といい、青州魯国曲阜県の人である。父は孔宙、兄は孔襃、子は名前が不明、娘がいる。河南伊だった李膺は名声が高かったので訪問者が多く、当代優れた人か、代々の付き合いある人しか通さなかった。孔融は十余歳の時、李膺…

許攸子遠きょゆうしえん

許攸、字を子遠といい、荊州南陽郡の人である。184年、黄巾の乱の後も権臣や宦官が朝政を壟断し、後漢は衰頽の途を辿る一方だった。これを見て冀州刺史王芬は南陽の許攸・沛国の周姓とともに各地の豪傑と結んで、霊帝を廃して劉氏の一…

任峻伯達じんしゅんはくたつ

任峻、字を伯達といい、司隷河南尹中牟県の人である。子は任先、任覧らがいる。後漢末、任峻は怯える楊原に対して「董卓に対して誰もが怒りの目を注いでいますが、まだ行動を起こさないのは、情勢がそうさせているのであって、その気がな…

国淵子尼こくえんしじ

国淵、字を子尼といい、楽安国蓋県の人である。子は国泰がいる。鄭玄に師事した。その後、邴原、管寧らと遼東に動乱を避けた。旧地に帰ったのち、曹操が招いて司空掾とした。公の朝議における議論では、つねに厳正な態度で直言したが、退…

陳羣長文ちんぐんちょうぶん

陳羣、字を長文といい、潁川郡許昌県の人である。父は、陳紀、子は、陳泰がいる。祖父の陳寔、父の陳紀、叔父の陳諶(シン)はいずれも名声が高かった。陳羣が子供のころ、陳寔はつねに特別の評価を下し、一族の長老たちに向かって、この…

韓浩元嗣かんこうげんし

韓浩、字を元嗣といい、河内の人である。子はなく、養子に韓栄がいる。後漢末、戦乱が起こり、韓浩の県は山林地帯に近接していたため、山賊が横行していた。韓浩は、徒党を集めて県の護衛にあたった。太守の王匡は彼を従事に任命し、軍兵…

張郃儁乂ちょうこうしゅんがい

張コウ(コウの字は合におおざと偏)、字を儁乂といい、河間郡の人である。子は張雄らがいる。後漢、募集に応じて黄巾を討伐し、軍の司馬となり、韓馥に所属した。韓馥が敗北すると、兵をつれて袁紹に身を寄せた。袁紹は張コウを校尉とし…

荀彧文若じゅんいくぶんじゃく

荀イク(イクは「或」の斜めの線に線を二つ加えたもの)、字を文若といい、頴川郡頴陰県の人である。兄に荀衍、弟に荀シン、子に荀惲、荀ギ、荀粲などがいる。容姿端麗な偉丈夫であった。荀イクが若かったころ、南陽の何ギョウは彼を特別…

曹操孟徳そうそうもうとく

曹操は若くして機知・権謀に富んだが、放蕩を好み素行を治めなかったため世評は芳しくなかった。ただ大尉の橋玄は「天下は乱れようとしており、当代一の才の持主でなければ救う事はできない。天下をよく安んずるのは君である」などと曹操…