張繍ちょうしゅう

張繍といい、武威郡祖厲県の人である。驃騎将軍張済の族子で、子は張泉らがいる。辺章と韓遂が涼州で乱を起こしたとき、金城の麴勝は祖厲の県長劉雋を襲撃し殺害した。張繍は県吏であったが、隙を狙って麴勝を暗殺したため、郡中の人はそ…

薛夏宣聲せつかせんせい

薛夏は字を宣聲といい、天水郡の人である。子の名は不明である。天水郡には、旧から姜・閻・任・趙の四姓が郡中で幅を利かせていた中で、薛夏は単家だったが、彼らに屈しなかった。四姓の者たちは薛夏を始末しようとしたため、故郷を逃れ…

夏侯称叔権かこうしょうしゅくけん

夏侯称、字を叔権という。父は夏侯淵で、兄は夏侯衡・夏侯覇、弟は夏侯栄・夏侯威・夏侯恵・夏侯和らがいる。夏侯称は幼いころから子供たちを集め、その頭となっていつも戦ごっこをしていた。規律を破った者がいると、必ず厳しく鞭打った…

夏侯栄幼権かこうえいようけん

夏侯栄、字を幼権という。父は夏侯淵、兄は夏侯衡・夏侯覇・夏侯称・夏侯威、弟は夏侯恵・夏侯和らがいる。夏侯栄は父の夏侯淵につき従って漢中に進んだ。219年、夏侯淵が敗北を喫すると、側近の者はまだ十三歳の夏侯栄を抱えて逃げよ…

邢顒子昂けいぎょうしこう

邢顒、字を子昂といい、河間郡の人である。子に邢友がいる。孝廉に推挙され、司徒の召命を受けたが、いずれも応じなかった。姓と字を変えて、右北平に赴き、田疇のもとに客となった。それから五年たって、曹操が冀州を平定した。邢顒は田…

棗祗そうし

棗祇といい、豫州潁川郡の人である。子は棗処中、孫は棗拠がいる。元の姓は蕀であった。最初、義兵を起こし、各所の征討に従事した。のちに袁紹が冀州にいて、やはり棗祇に執着をもち、彼を手に入れたいと願った。棗祇は曹操を深くたよっ…

董遇季直とうぐうきちょく

董遇、字を季直といい、弘農郡の人である。関中が乱れると、兄とともに将軍段ケイに身を寄せた。生活は苦しかったが、農事や行商の間にも経書を手放さなかった。196年、郡から孝廉に推挙され、黄門侍郎にまで昇進した。董遇は献帝の寵…

徐庶元直じょしょげんちょく

徐庶、字を元直といい、潁川郡長社県の人である。元の名は福といい、もともと単家、つまり勢力がない貧しい家の出身だった。若いころは任侠を好み、剣の遣い手だった。かつて人のために仇討ちをし、白い土を顔に塗りつけ、髪を振り乱して…

李孚子憲りふしけん

李孚、字を子憲といい、冀州鉅鹿郡の人である。官吏となって袁紹の三男袁尚の主簿となった。202年、官渡・倉亭で曹操に連敗して袁紹は、失意のうちに死んだ。彼は袁尚の美貌を愛し、後継者にしたいと考えていたが、生前にその意志を公…

脂習元升ししゅうげんしょう

脂習、字を元升といい、司隷郡京兆の人である。中平年間に都に仕え、三公の府に召されて太医令となった。献帝が董卓に強いられて長安に遷都した時も、曹操に奉じられて許に遷った時も、脂習はいつも随従した。脂習は少府の孔融とも親交が…

閻行彦明えんこうげんめい

閻行、字を彦明といい、涼州金城の人である。184年、黄巾の大乱の渦中、西方を荒らしまわった韓遂の若手将校として活躍、武勇を謳われた。韓遂が隴西郡を襲ったとき、馬騰は彼に味方し、以後、二人は異姓兄弟の約を結んで親しくなった…

高柔文恵こうじゅうぶんけい

高柔、字を文恵といい、陳留郡圉県の人である。従兄は高幹、祖父は高弘、父は高靖、子は不明だが孫は高渾がいる。父の高靖が蜀軍都尉として赴任して不在の時、四戦の地の陳留郡を去って、河北にいた従兄の高幹から呼ばれていたのを幸いに…

王朗景興おうろうけいこう

王朗、字を景興といい、東海郡郯県の人である。子は王粛、甥(兄の子)は王詳、孫は王元姫らがいる。経書に通じていることから、郎中に任じられ、葘丘の長にに任命された。太尉の楊賜を師と仰いでいたが、楊賜が逝去したので、官を捨てて…

辛毗佐治しんぴさじ

辛毗、字を佐治といい、豫州頴川郡陽翟県の人である。兄に辛評、子に辛敞、妻に辛憲英らがいる。辛毗は兄の辛評にともなわれて袁紹につき従った。曹操は司空になると辛毗を召し寄せたが、辛毗は命令に応じることができなかった。202年…

魏続ぎぞく

魏続といい、字も出身地も不明である。呂布の部将として随従した。呂布の縁戚関係にあったことから重用された。部将の高順がしばしば呂布に諫言して呂布は高順を疎うようになった。後に呂布は高順の兵を魏続に率いさせ、魏続の兵を高順に…

宋憲そうけん

宋憲といい、字も出身地も不明である。呂布の部将として、各地を転戦した。198年12月、曹操に追い詰められ下邳城に立て篭ったとき、同僚の魏続・宋憲と共に反乱を起こし、呂布の参謀陳宮、高順らを捕縛して、曹操を城内に招き入れた…

侯成こうせい

侯成といい、字も出身地も不明である。侯成の食客が侯成の馬15頭を奪い逃げたことがあって、侯成は追いかけて馬を奪い返し、同僚たちから祝賀された。後に呂布の部下として随従した。侯成は酒と猪肉を同僚に振る舞おうとを考え、先に呂…

孔融文挙こうゆうぶんきょ

孔融、字を文挙といい、青州魯国曲阜県の人である。父は孔宙、兄は孔襃、子は名前が不明、娘がいる。河南伊だった李膺は名声が高かったので訪問者が多く、当代優れた人か、代々の付き合いある人しか通さなかった。孔融は十余歳の時、李膺…

張燕飛燕ちょうえんひえん

張燕、字を飛燕といい、常山郡真定県の人である。本姓は褚といった。子は張方、孫は張融、曾孫は張林らがいる。184年、黄巾の乱が起きたとき、褚燕は無頼の若者を集めて盗賊団を結成した。三沢地域を根城として各地を攻め荒らし、郷里…

孫観仲台そんかんちゅうだい

孫観、字を仲台といい、泰山郡の人である。兄は孫康、子は孫毓がいる。臧覇とともに兵を起こし、黄巾賊を討伐し、騎都尉に任命された。曹操は呂布を撃ち破ると、臧覇に孫観兄弟を招かせ、彼らを皆手厚く処遇した。臧覇とともに戦闘に参加…

曹昂子侑そうこうしゆう

曹昂、字を子侑といい、曹操の長男である。弟は曹鑠、異母弟は曹丕、曹彰、曹植、曹熊、曹沖、曹拠、曹宇、曹霖、曹袞などがいる。二十歳で孝廉に推挙された。197年、曹操につき従って南方征討に赴き、張繍を降伏させた。曹操は張済の…

韓嵩徳高かんすうとくこう

韓嵩、字を徳高といい、荊州南陽郡の人である。曹操と袁紹が管渡で対峙している間、江漢一帯を保有しつつ、劉表は天下の形勢を見守っていた。この時、袁紹から救援の要請があり、劉表はいったん承諾を与えたが、依然として動かなかった。…

許攸子遠きょゆうしえん

許攸、字を子遠といい、荊州南陽郡の人である。184年、黄巾の乱の後も権臣や宦官が朝政を壟断し、後漢は衰頽の途を辿る一方だった。これを見て冀州刺史王芬は南陽の許攸・沛国の周姓とともに各地の豪傑と結んで、霊帝を廃して劉氏の一…

任峻伯達じんしゅんはくたつ

任峻、字を伯達といい、司隷河南尹中牟県の人である。子は任先、任覧らがいる。後漢末、任峻は怯える楊原に対して「董卓に対して誰もが怒りの目を注いでいますが、まだ行動を起こさないのは、情勢がそうさせているのであって、その気がな…

鮑信ほうしん

鮑信は泰山群平陽の人で、漢の司隷校尉鮑宣の八世の孫である。父は鮑丹、鮑韜の兄、子は鮑邵・鮑勛らがいる。父鮑丹は少府、侍中まで宮位が昇り、代代その家は儒学を修めて有名だった。鮑信は霊帝の時代、大将軍何進にめされて騎都尉に任…

高覧こうらん

高覧といい、字も出身も不明である。袁紹の配下として先鋒を務めた。200年10月、官渡の戦いで烏巣が曹操によって攻撃された。張郃と共に曹操の本陣に攻撃を仕掛けるため、先鋒を任された。しかし結局攻め落とせず、曹操は烏巣を陥落…

徐奕季才じょえききさい

徐奕、字を季才といい、東莞の人である。甥に徐統がいる。戦乱のため江東に避難し、孫策は礼を尽くして徐奕を任命しようとした。徐奕は姓名をかえ、めだたぬ服装で本籍の郡に帰った。曹操は司空となると、召し出して掾属に任命した。徐奕…

戯志才ぎしさい

戯志才といい、豫州潁川郡の人である。曹操が許昌にて献帝を擁した際に、策略に優れた人物として荀彧に推薦された。曹操は戯志才をみて重用して、常に相談役とした。しかし早くに亡くなってしまい、曹操はその死を嘆いた。曹操は、戯志才…

牛金ぎゅうきん

牛金といい、出生も字も不明である。208年、周瑜が軍を率いて六千余人が江陵に攻め込んできた。牛金は僅か三百余人でこれを迎撃し、奮戦したが、後一歩で危うく討たれるところであった。しかし、牛金の身を案じた曹仁が救援に駆け付け…

徐宣宝堅じょせんほうけん

徐宣、字を宝堅といい、広陵郡海西県の人である。子は徐欽がいる。動乱を避けて江東に赴いたが、やはり孫策の任命を辞退し、本籍の郡に帰った。陳矯と並んで綱紀となったが、二人は名声をひとしくしながらも、個人的な仲はうまくいかなか…

陳矯季弼ちんきょうきひつ

陳矯、字を季弼といい、広陵郡東陽県の人である。子は陳本、陳騫、陳稚がいる。動乱を避けて江東および東城に赴いたが、孫策と袁術の任命を辞退して本籍の郡に帰った。太守の陳登は要請して功曹にとりたて、陳矯を許へ行かせたが、陳矯に…

朱霊文博しゅれいぶんはく

朱霊、字を文博といい、冀州清河県の人である。そのむかし、朱霊は袁紹の将軍であった。清河の李雍は袁紹にそむき公孫サンに降伏した。公孫サンは兵を派遣して彼を護らせた。袁紹は朱霊をやって彼を攻撃させた。朱霊の家族は城中にいた。…

崔琰季珪さいえんきけい

崔エン(王偏に炎)、字を季珪といい、清河郡東武城県の人である。年少のころは誠実な人柄で、剣術を好み、武芸を尊んだ。二十三歳のとき、郷(呉の下の行政単位)から公文書をもって正卒に任命された。はじめて発奮して『論語』と『韓詩…

毛玠孝先もうかいこうせん

毛カイ(王偏に介)、字を孝先といい、陳留郡の平丘県の人である。子に毛機がいる。若いころ、県の役人となったが、清潔公正ということで評判をたてられた。戦乱を避けて荊州に行こうとしたが、到着する前に、劉表の政令がいい加減だと聞…

史渙公劉しかんこうりゅう

史渙、字を公劉といい、沛国の人である。子は、史静がいる。若いころには任侠の徒で、男らしい性格だった。曹操がはじめて旗揚げしたとき、客分として随行し、中軍校尉を代行した。征伐に随行するときは、いつも諸将を監督し、信頼され、…

国淵子尼こくえんしじ

国淵、字を子尼といい、楽安国蓋県の人である。子は国泰がいる。鄭玄に師事した。その後、邴原、管寧らと遼東に動乱を避けた。旧地に帰ったのち、曹操が招いて司空掾とした。公の朝議における議論では、つねに厳正な態度で直言したが、退…

涼茂伯方りょうぼうはくほう

涼茂、字を伯方といい、山陽郡昌邑県の人である。若いころ、学問が好きで、議論の場合、いつも経典を根拠とし、それによって価値判断を下した。曹操に招かれて司空の掾となり、優秀な成績で推挙され、侍御史を授けられた。当時、泰山には…

張範公儀ちょうはんこうぎ

張範、字を公儀といい、河内郡修武県の人である。父は漢の大尉張延、弟は張承、張昭(呉の張昭とは別人)、子は張陵、張参がいる。太傅の袁隗は娘を張範にめあわせたいと思ったが、張範は辞退して受けなかった。落ち着いた静かな性格で、…

王粲仲宣おうさんちゅうせん

王粲、字を仲宣といい、山陽郡高平県の人である。曾祖父の王襲、祖父の王暢はどちらも漢代に三公となった。父に王謙、従兄弟に王凱、子に男子二名らがいる。父の王謙は大将軍何進の長史となった。何進は王謙が名高い三公の血筋であること…

劉馥元穎りゅうふくげんえい

劉馥、字を元穎といい、沛国相県の人である。子に劉靖、孫に劉煕、劉弘らがいる。動乱を避けて揚州に赴いた。建安の初、袁術の将軍だった戚寄と秦翊を説き伏せ、軍勢をひきつれていっしょに曹操のもとへくらがえさせた。曹操はそれを喜び…

陳泰玄伯ちんたいげんはく

陳泰、字を玄伯といい、潁川の人である。父は陳羣、子は陳恂、陳温がいる。青龍年間、散騎侍郎に任命された。正始年間、游撃将軍に移り、并州の刺史となり、振威将軍の称号を加えられ、使持節・護匈奴中郎将となって、異民族を手なずけ、…

陳羣長文ちんぐんちょうぶん

陳羣、字を長文といい、潁川郡許昌県の人である。父は、陳紀、子は、陳泰がいる。祖父の陳寔、父の陳紀、叔父の陳諶(シン)はいずれも名声が高かった。陳羣が子供のころ、陳寔はつねに特別の評価を下し、一族の長老たちに向かって、この…

桓階伯緒かんかいはくしょ

桓階、字を伯緒といい、長沙郡臨湘県の人である。父は桓勝、弟は桓簒、桓彝、子に桓佑、桓嘉らがいる。郡に仕官して功曹となった。太守の孫堅は桓階を孝廉に推挙し、尚書郎に任命したが、桓階は父の死にあって郷里に帰った。たまたま孫堅…

龐悳令明ほうとくれいめい

ホウ悳(ホウは广=まだれに龍)、字を令明といい、南安郡狟道県の人である。従兄はホウ柔、子はホウ会、他三人がいる。若くして郡吏・州の従事となった。初平年間、馬騰につき従って反乱を起こした羌族・氐族を攻撃し、たびたび戦功を立…

袁渙曜卿えんかんようけい

袁渙、字を曜卿といい、陳郡扶楽県の人である。父は、漢の司徒であった袁滂、従兄弟は袁覇、子は袁侃、袁ウ、袁奥、袁準がいる。当時、貴族の子弟たちには、法律制度を無視する者が多かったが、袁渙は清廉で落ち着きが有り、必ず礼に従っ…

夏侯尚伯仁かこうしょうはくじん

夏侯尚、字を伯仁といい、曹操や夏侯淵の従子である。子は、夏侯玄、司馬師の妻の夏侯徽がいる。演義では、兄に夏侯徳がいる。曹操が冀州を平定したとき、夏侯尚は軍司馬になり、騎兵をひきいて征伐のお供をした。後年、五官将の曹丕の文…

曹真子丹そうしんしたん

曹真、字を子丹といい、曹操の族子である。子は、曹爽、曹羲、曹訓、曹則、曹彦、曹皚がいる。曹真はもとの姓を秦氏といい、曹氏に養育されたのであった。曹操が兵をあげたとき、曹真の父曹邵は徒党を募ったため、豫州刺史の黄エンに殺害…

曹休文烈そうきゅうぶんれつ

曹休、字を文烈といい、沛国ショウ(ショウは[言偏]に[焦])の人である。曹操の血縁の無い族子である。子は、曹肇、曹纂らがいる。天下が動乱に陥ると、一族の者たちはそれぞれちりぢりになって郷里から立ち去った。曹休は十数歳のと…

曹純子和そうじゅんしわ

曹純、字を子和といい、沛国の人である。兄は曹仁、子は曹演がいる。十四歳のときに父をなくし、同母兄の曹仁とは別に暮らしていた。父の家督を受け継ぎ、富裕な財産を有し、召使いや食客は数百人にも達していたが、曹純は規律正しくこれ…

韓浩元嗣かんこうげんし

韓浩、字を元嗣といい、河内の人である。子はなく、養子に韓栄がいる。後漢末、戦乱が起こり、韓浩の県は山林地帯に近接していたため、山賊が横行していた。韓浩は、徒党を集めて県の護衛にあたった。太守の王匡は彼を従事に任命し、軍兵…