西郷四郎

西郷 四郎(さいごう しろう、1866年3月20日(慶応2年2月4日) – 1922年(大正11年)12月22日)は、明治時代の柔道家。講道館四天王の一人。富田常雄の小説『姿三四郎』のモデル。 会津藩士・志田…

白洲正子

随筆家。夫は白洲次郎である。薩摩藩士で伯爵の樺山家に生まれ幼少期からの教育により、能や骨董など日本文化や美術に深い造詣を持ち多くの著書を残した。没後もカリスマ的人気を誇り、関連書籍も数多く出されている。代表作に『十一面観…

大石りく

江戸時代前期の女性。「赤穂事件」における赤穂浪士四十七士のリーダー大石内蔵助の妻として知られる。非常に大柄だったといわれ身長は6尺(約180cm)あったとも。但馬国豊岡藩京極家の家老・石束毎公の長女として、但馬国豊岡(現…

三村次郎左衛門

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。次郎左衛門は通称で、名は包常(かねつね)。赤穂藩浅野家に仕えるが役職は台所役という非常に低い身分だった。そのため、主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こし赤穂城開城をめぐる藩士…

茅野和助

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。和助は通称で、名は常成(つねなり)。美作国津山藩(岡山県津山市)の森家家臣の子として津山に生まれ、森家に仕えたあと、赤穂藩浅野家に再仕官した。なお、おなじく義士の神崎与五郎も…

武林唯七

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。唯七は通称で、名は隆重(たかしげ)。祖父は帰化中国人の孟二寛で、祖をたどれば孟子にいきつく。赤穂藩士・渡辺式重の次男として生まれ、兄が渡辺家を継ぎ、弟の唯七は祖父がかつて使っ…

村松三太夫

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。三太夫は通称で、名は高直(たかなお)。父は同じく義士の村松喜兵衛。主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時は、江戸詰め藩士だった父とともに江戸にいたが、凶報に接するや赤穂へ…

村松喜兵衛

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。喜兵衛は通称で、名は秀直(ひでなお)。もと浪人の町人の子として江戸で生まれ、のち赤穂藩士の和算学者・村松茂清の婿養子となった。赤穂藩では江戸詰めの藩士だったので、主君・浅野内…

磯貝十郎左衛門

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。十郎左衛門は通称で、名は正久。幕臣に仕える武士の子として生まれたが、主家の断絶により父が浪人となると、美少年だった十郎左衛門は京の愛宕山教学院の稚児小姓となった。14歳の時、…

矢田五郎右衛門

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。五郎右衛門は通称で、名は助武(すけたけ)。赤穂藩浅野家家臣の子として生まれ、父の死後、家督を相続すると江戸詰めの藩士となり、主君・浅野内匠頭長矩が刃傷事件を起こした時も江戸に…

奥田貞右衛門

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。貞右衛門は通称で、名は行高(ゆきたか)。同じく義士の奥田孫太夫は義父で、これまた同じく義士の近松勘六は異父兄。赤穂藩浅野家家臣の子として生まれ、のち、奥田孫太夫の婿養子となっ…

潮田又之丞

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。又之丞は通称で、名は高教(たかのり)。妻のゆうは、大石内蔵助のいとこにあたる。家紋は細輪に三引。赤穂藩浅野家の家臣の子として生まれ、赤穂藩士となると郡奉行、絵図奉行を務めた。…

間瀬久大夫

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。久大夫は通称で、名は正明(まさあき)。家紋は右三つ巴(巴とも)。姓名の読みは「まなせきゅうだゆう」であるという説もある。子の間瀬孫九郎、従兄の小野寺十内、甥の中村勘助も義士と…

近松勘六

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。勘六は通称で、名は行重(ゆきしげ)。家紋は六ツ星。同じく赤穂浪士のひとり奥田貞右衛門(行高)は異父弟。祖父が赤穂藩の典医として仕えた縁から勘六も赤穂藩士となった。山鹿流兵学に…

堀部弥兵衛

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとりで最高齢となる77歳の義士。弥兵衛は通称で、名は金丸(かなまる)。本姓は近江源氏。家紋は四ツ目結二ツ。同じく赤穂浪士のひとりで「高田の馬場の決闘」で名高い堀部安兵衛(武庸)は養…

片岡源五右衛門

江戸時代前期の武士、赤穂浪士四十七士のひとり。源五右衛門は通称で、名は高房。本姓は近江源氏。家紋は瓜の内釘貫。御三家のひとつ尾張徳川家の家臣の子として名古屋に生まれる。幼い頃に親戚にあたる赤穂藩士・片岡六左衛門の養子とな…

龍造寺伯庵

江戸時代前期の武士。「伯庵」は通称で、名は季明(すえあき)。御家騒動「鍋島騒動」の中心人物のひとり龍造寺高房の庶子で、「龍造寺家嫡流」を自称した。伯庵は高房の子と考えられているが、生母の身分が低かったため嫡男と認知されて…

前野良沢

江戸時代中期から後期の蘭学者、豊前国中津藩(現・大分県中津市)の藩医。杉田玄白とともに『解体新書』を翻訳したことで知られる。「良沢」は通称で、名は熹(よみす)、字は子悦、号は楽山のち蘭化。号の「蘭化」は中津藩主・奥平昌鹿…

緒方洪庵

江戸時代後期の蘭学者、医者、武士。大坂で蘭学塾「適々斎塾(てきてきさいじゅく)」(通称:適塾)を開き、福澤諭吉など幕末から明治にかけて活躍した人材を数多く輩出した。適塾は現在の大阪大学医学部の前身とされる。諱は惟章(これ…

真田幸弘

江戸時代中期から後期の大名、信濃国松代藩の6代藩主。「松代中興の名君」と称えられる。幼名は豊松、別名は幸豊、官位は従四位下、右京大夫、伊豆守、弾正大弼。5代藩主・信安の子として生まれ、父の死後、13歳の若さで藩主となった…

釧雲泉

江戸時代後期の南画家。名は就(じゅ)、字は仲孚(ちゅうふ)、通称は文平、号はほかに魯堂、六石(りくせき)、磊落居士など。一般に知られる号の「雲泉」は雲仙岳にちなんだもの。肥前国島原野田名(現・長崎県島原市千々石町)にて島…

貝原益軒

江戸時代前期から中期に活躍した本草学者、儒学者、教育者。本名は貝原篤信、字は子誠、通称は久兵衛、号は柔斎、損軒。一般に知られる「益軒」は晩年に名乗ったもの。福岡藩士・貝原寛斎の子として生まれ、益軒も福岡藩2代藩主・黒田忠…

恋川春町

江戸時代中期の戯作者、浮世絵師。本名は倉橋格(いたる)。幼名は亀之助、通称は隼人のち寿平、号はほかに寿山人、寿亭、春町坊。狂歌での名は「酒上不埒(さけのうえのふらち)」。「春町」のペンネームは藩邸があった江戸小石川春日町…

近松門左衛門

江戸時代前期から元禄にかけ活躍した人形浄瑠璃・歌舞伎の作者。代表作に『曽根崎心中』『国性爺合戦』『心中天網島』『冥土の飛脚』など。本名は杉森信盛、幼名は次郎吉。家紋は「丸に一文字」。父は越前国福井藩士で、のち父の転勤にと…

平田靱負

江戸時代中期の武士、薩摩藩の家老。別名は次郎兵衛、新左衛門、掃部、靱負。1753年に行われた木曽三川分流工事(宝暦治水事件)の責任者として知られる。1753年、琉球貿易により財力を蓄える薩摩藩を警戒した幕府は、木曽三川(…

絵島

江戸時代中期の江戸城大奥御年寄。本名はみよ。「江島」の表記が正しいとも。歌舞伎役者と大奥女中ら多数が処罰された風紀粛清事件「絵島生島事件」の中心人物として知られる。甲府藩士・疋田彦四郎の娘として三河国に生まれ、江戸で育っ…

柳沢吉保

江戸時代前期の譜代大名。5代将軍・徳川綱吉の側用人。初名は房安、通称は弥太郎。上野国館林藩士・柳沢安忠の長男として江戸の市ヶ谷にて生まれる。6歳の時に当時、館林藩主だった綱吉に初めて謁見、家督を相続後、綱吉の家臣となった…

保科正之

江戸時代前期の大名で会津松平家初代。徳川家康の孫にあたり、父は2代将軍・秀忠。3代将軍・家光は異母弟にあたる。幼名は幸松、通称は会津中将、神号は「土津霊神」。「江戸初期の三名君」のひとり(ほか2人は水戸藩主・徳川光圀、岡…

新門辰五郎

町火消であり侠客、香具師でもある。浅草十番組「を組」の頭。 勝海舟とも交流を持ち実娘のお芳は徳川慶喜の妾。 新門辰五郎は町の火消にとどまらない大きな影響力を持ち、資金力もずば抜けていた。鳥羽伏見の戦いにおいて、徳川慶喜が…

福沢諭吉

幕臣。その生涯を通じた活躍は、あまりにも多岐にわたる。蘭学者、自然科学者、著述家、啓蒙思想家、新聞時事新報の創刊・発行者、教育者、明六社発起人、慶應義塾創設者。適塾出身でもある。旧字体では福澤と書く。

谷万太郎

新選組隊士。谷三兄弟の二男(兄は谷三十郎、弟は谷周平)。 新選組入隊前は大阪で槍術道場を開き、槍の腕前は新選組槍術師範の兄・三十郎を凌ぐとさえいわれていた(一説には、槍術師範を務めたのは万太郎だったともいわれる)。 池田…

箕作秋坪

教育家、啓蒙思想家である。 箕作阮甫の弟子となり、次いで緒方洪庵が開いた適塾にて学ぶ。このあと箕作阮甫の娘と結婚して婿養子となる。 幕末から明治にかけて、教育家として、蕃書調所(東京大学の前身)の教授手伝、三叉学舎や専修…

池田慶徳

鳥取藩第12代藩主。 水戸藩主・徳川斉昭の五男であったが、鳥取藩前藩主(池田慶栄)が跡継ぎなく急死したため、急遽養子となり藩主に就く。 尊王攘夷派と佐幕派の板挟みにあい藩論統一に苦慮しながらも、藩政改革をすすめ、学問を奨…

河鍋暁斎

幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師。海外でも高く評価されている。 自らを「画鬼」とも号した。師は歌川国芳。

安藤信正

徳川幕府老中をつとめる。老中在職中に信行、さらに信正に改名している。 桜田門外の変で、時の最高権力者・井伊直弼が暗殺されたことをうけて、同僚である老中・久世広周とともに、幕政を取り仕切る立場となる。 政策としては公武合体…

伊東甲子太郎

池田屋事件の後、局長・近藤勇の勧誘により伊東甲子太郎は新選組に入隊する。参謀兼文学師範として人望も厚かったが、新選組の佐幕化にともない対立が表面化していく。 1867年、新選組を離脱し高台寺党と結成するが、同年12月13…

お龍

本名は楢崎龍(ならさきりょう)。坂本龍馬の妻である。龍馬曰く「まことにおもしろき女」。 龍馬と出会う前、お龍の一家は勤王の医師であった父が安政の大獄で獄死してしまったため非常に困窮していた。見かねた龍馬の斡旋で、お龍は寺…

新島襄

キリスト教の布教家であり明治六大教育家の一人。同志社大学(前身は同志社英学校)を興したことでも知られる。 若い頃に触れたアメリカの地図書に感銘を受け、海外への憧れを抱くようになる。幕府の軍艦操練所で洋学を学んだ後、アメリ…

幾松

幕末において京都一と評判の高かった芸妓である。桂小五郎の恋人であり、常に命を狙われる桂を支え続けた。特に、禁門の変で長州藩が敗れ、物乞い姿になり三条大橋の下で身を隠す桂によく握り飯を持参した逸話はあまりに有名。 明治維新…

梅田雲浜

通称は源次郎。号は雲浜、湖南。 小浜藩士時代、藩主・酒井忠義に海防策を建言したところ、藩政批判ととられ藩籍を剥奪される。 その後、浪人として各地を遊説してまわり、尊王攘夷派の思想的指導者となっていく。 当時の江戸の実権を…

高松凌雲

日本における赤十字運動の先駆者。 緒方洪庵の適塾にて医学を学ぶ。ほかオランダ語・英語も習得するなど、その才能は広く知られるようになる。 凌雲の評判を知った一橋家が専属医師として登用。ほどなく徳川慶喜が将軍となった為、凌雲…

真木和泉

清河八郎と並ぶ尊王攘夷のアジテーター。また煽動するだけではなくプロデューサーとしてさまざまな計画を立てる。もともとは神官。名は保臣。 藩在籍時は、下級武士や神職、村の役人層の子弟を相手に尊王論にもとづく王政復古策を説き、…

徳川茂徳

尾張藩第15代藩主。高須四兄弟の一人(ほか、尾張藩14&17代藩主・徳川慶勝、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬)。尾張藩主であり異母兄の徳川慶勝が安政の大獄により隠居謹慎となったため、尾張藩主に就任。のち…

徳川慶勝

尾張藩14代・17代藩主。高須四兄弟の一人(ほか、尾張藩15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬)。尊王攘夷を思想のベースとして、内政では、倹約による財政改革を行う。外政では、攘夷の立場から井伊直弼が…

前田斉泰

加賀藩第12代藩主。黒船来航を機に藩内で改革派を積極登用。軍制を洋式化するなど、藩政改革を行う。

堀田正倫

佐倉藩第6代藩主。最後の藩主である。鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜の助命/徳川家存続を嘆願。明治新政府に軟禁されてしまう。このため、佐倉藩は藩主不在のまま、戊辰戦争を迎えた。

堀田正睦

佐倉藩第5代藩主。老中(首座)である。

河井継之助

長岡藩士。かわいつぎのすけ、とも読まれる。号は蒼龍窟。30歳半ばまでは、藩政改革を試みるがなんの成果も上げられずに失敗するなど、さしたる活躍もなく、もっぱら遊学していた。主に、江戸で佐久間象山や古賀謹一郎、松山藩では備中…

牧野忠恭

長岡藩の第11代藩主。京都所司代をつとめる(1862-63年。桑名藩・松平定敬の2代前)。所司代辞職後は老中を拝命するが、翌年辞職。いずれも長く務めることはなかったが、これは政情不安定な時局において、藩内政に注力すべきと…

高野長英

仙台藩士。のち、医者・蘭学者となる。長崎留学時、シーボルトの鳴滝塾で塾頭をつとめるなど、蘭学者として当時最高の実力者であり、田原藩や紀州藩、宇和島藩などでその能力を発揮。特に、鳴滝塾同門の二宮敬作の推薦で雇われた宇和島藩…