丁原建陽ていげんけんよう

丁原、字を建陽といい、寒門の人である。南県の官吏を務めたが、のちに并州刺史となり、騎都尉となった。呂布を属官に取り立てた。霊帝が崩御すると、何進は宦官を誅殺しようと董卓・橋瑁らとともに丁原は洛陽に召し寄せられた。何進は命…

張楊雅叔ちょうようがしゅく

張楊、字を雅叔といい、雲中郡の人である。武勇によって并州で採用され、武猛従事となった。霊帝の末期、天下が混乱したので、霊帝は寵愛していた小黄門の蹇碩を西園上軍校尉に任じ、首都に駐屯させて、四方を抑えたいと考え、天下の豪傑…

張邈孟卓ちょうばくもうたく

張邈、字を孟卓といい、東平郡寿張県の人である。弟は張超がいる。若い時からおとこだてとしてならし、困っている者を救い、せっぱつまっている者を助けるためには、家財を傾けて惜しまなかったので、大勢の人々が彼のもとに身を寄せた。…

陶謙恭祖とうけんきょうそ

陶謙、字を恭祖といい、丹揚郡の人である。子は陶商、陶応らがいる。若い時から学問が好きで、大学の学生になり、州と郡に出仕して、茂才に推挙され、盧県の令に任命された。西羌族が西方の国境地帯をあらした。皇甫嵩が征西将軍に任ぜら…

韓馥文節かんふくぶんせつ

韓馥、字を文節といい、潁川郡の人である。189年、御史中丞だったが、董卓が洛陽に入って権力を握ると、冀州牧に任じられた。当時、冀州は人口が多く、軍糧も豊かだった。渤海太守の袁紹が反董卓の挙兵に上がると、韓馥にとって気がか…

馬騰寿成ばとうじゅせい

馬騰、字を寿成といい、扶風郡茂陵県の人である。先祖は後漢の名将馬援。父は馬平、子は馬超、馬休、馬鉄、甥に馬岱がいる。馬騰は若いころ貧乏に苦しんで、いつでも彰山に入って材木をきりだしては市場に行って売っていた。涼州刺史耿鄙…

劉璋季玉りゅうしょうきぎょく

劉璋、字を季玉という。父は劉焉、兄は劉瑁、劉範、劉誕、子は劉循、劉闡らがいる。劉焉の位を継いでから、張魯がだんだん驕って勝手放題となり、劉璋に従うことを承知しなくなったので、劉璋は張魯の母と弟を殺し、かくて二人は仇敵とな…

劉焉君郎りゅうえんくんろう

劉焉、字を君郎といい、江夏郡竜陵県の人、漢の魯の恭王劉余(景帝の第4子)の後裔である。子は劉範・劉誕・劉瑁・劉璋らがいる。章帝の元和年間に竜陵に国がえされ、分家がここに居を定めた。劉焉は若くして州や郡の役所に勤め、王族の…

郭汜かくし

郭汜といい、字も出身地も不明である。幼名は阿多。董卓が洛陽を焦土し東方へ軍を進めると、郭汜は諸軍をまとめ李傕とともに中牟で朱儁を打ち破った。192年、董卓が王允らに暗殺されると、賈詡の献策も用いて長安を攻撃し、これを陥落…

李傕稚然りかくちぜん

李傕、稚然といい、涼州北地郡の人である。子は李式、甥は李利・李暹・胡封(姉妹の子)、従弟は李応・李桓らがいる。192年、董卓の死によって支柱を失った李傕らは、賈詡の献策も用いて長安を攻撃し、これを陥落させた。李傕・郭汜・…

劉虞伯安りゅうぐはくあん

劉虞、字を伯安といい、徐州東海郡郯県の人である。子は劉和がいる。184年、黄巾の乱が起こると、甘陵国の相に任命された。荒廃の傷跡深い民を慰撫し、節倹を旨に指導した。後に、中央に召し出され、尚書令・光禄勲を経て宗正に転任し…

張角ちょうかく

張角といい、冀州鉅鹿郡の人である。弟に張宝、張梁らがいる。張角の出身地鉅鹿郡はショウ水に近く、この辺りは大洪水で河道を南北に上下させる黄河の氾濫に、昔から振り回されてきた。時にはショウ水は黄河に連なって、その支流と化した…

王允子師おういんしし

王允、字を子師といい、太原郡祁県の人である。若いころから高い節義を持ち、当時の名士郭林宗に王佐の才ありと認められていた。三公から属官として召しだされ、侍御史に任じられた。184年、黄巾の乱がおこると、選ばれて豫州刺史とな…

貂蝉ちょうせん

貂蝉といい、漢の司徒王允の養女で、三国志演義に登場する架空の人物である。董卓が中央政権を牛耳り、洛陽から長安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を行う為に当時16歳とされる養女・貂蝉を使い、董…

公孫瓚伯珪こうそんさんはくけい

公孫サン(サンは[王偏]に[賛])、字を伯珪といい、遼西郡令支県の人である。従弟に公孫範、公孫越、子は公孫続らがいる。遼西郡の門下書佐に任命された。容姿美しく大声の持主だったために、侯太守が秀れた人材だと認め、自分の娘と…

劉表景升りゅうひょうけいしょう

劉表、字を景升といい、山陽郡高平県の人である。前漢の景帝第四子である魯恭王・劉余の子孫。甥に劉磐、子は、劉キ、劉ソウがいる。若いころから有名で八俊と呼ばれていた。身長は八尺以上もあり、容姿はたいへん立派であった。劉表は同…

袁術公路えんじゅつこうろ

袁術、字を公路という。父は司空の袁逢、同母兄は袁基、子は袁燿、従兄に袁紹がいる。狭気があることで知られていた。孝廉に推挙され、郎中に任命され、中央と地方の職を歴任したのち、折衝校尉・虎賁中郎将となった。董卓が少帝を廃そう…

袁紹本初えんしょうほんしょ

袁紹は字を本初といい、汝南郡汝南県の人である。叔父に袁隗、異母兄に袁基、子は、袁譚、袁煕、袁尚がいる。また袁買という人物には「袁紹の庶子」「袁尚の兄の子」という二説がある。袁術は異母弟である。曽祖父の袁安は、漢朝の司徒で…

何進遂高かしんすいこう

何進は字を遂高といい、南陽の人で、皇太后(何氏)の異母兄であった。何進はもとは屠殺人の子で、父は何真といった。継弟(義理の弟)は何苗(朱苗)で、孫は何晏。何真の死後、何進は黄門(宦官の位)の手びきで妹を後宮に入れることが…

董卓仲穎とうたくちゅうえい

隴西郡臨洮の出身。字は仲穎(ちゅうえい)。父は董君雅、兄に董擢、弟に董旻がいる。名は不明だが早世した子、甥に董璜、孫娘に董白がいる。粗暴で、知略に優れ、武芸に秀で、腕力が非常に強く、馬上で左手と右手のどちらでも弓を引くこ…

呂布奉先りょふほうせん

『三国志』によると、はじめ河内に并州刺史として駐屯していた丁原に騎都尉・主簿として仕え、重用された。189年、霊帝死後の混乱の中で丁原とともに首都洛陽に入るが、中央の権力獲得を図る董卓とやがて衝突した。董卓は丁原殺害を目…

秦宓子勅しんみつしちょく

秦宓は字は子勑といい、広漢郡緜竹の人である。若い頃から才能と学問があり、州や郡から招聘されたが、いつも病気と称して出仕しなかった。州牧の劉焉に上奏して、儒学者の任定祖を推薦して述べた、「昔、百里奚と蹇叔は老人であったにも…

董厥龔襲とうけつきょうしゅう

董厥、字を龔襲といい、義陽県の人である。董厥は、諸葛亮が丞相であったとき、その幕府の令史となった。その後、転任して主簿となった。234年、諸葛亮の死後、段々と昇進して尚書僕射となった。258年、陳祇に代わって尚書令となり…

諸葛喬伯松しょかつきょうはくしょう

諸葛喬、字を伯松という。父は諸葛瑾、兄は諸葛恪、子は諸葛攀がいる。もとの字は仲慎といった。最初、諸葛亮にまだ子供がなかったとき、諸葛喬を後継ぎに求めたところ、諸葛瑾は孫権に言上して、諸葛喬を西にやって諸葛亮の後継ぎにした…

楊顒子昭ようぎょうししょう

楊顒、字を子昭といい、襄陽郡の人である。一族に楊儀がいる。蜀に入って巴郡太守となり、丞相主簿となった。ある日、諸葛亮が会計簿を点検しているのをみて楊顒は、「政治をやるには分担というものがあり、上下は互いに侵しあってはいけ…

董允休昭とういんきゅうしょう

董允、字を休昭といい、荊州南郡の人である。父は董和、孫は董宏がいる。劉備が皇太子を立てると、董允は選抜されて太子舍人となり、太子洗馬に転任した。劉禅が帝位につぐと、黄門侍郎に昇進した。丞相諸葛亮は北伐して、漢中に駐屯しよ…

卓膺たくよう

卓膺といい、字、出身地が不明である。劉備が荊州を統治するとき、卓膺は配下となった。劉備が入蜀するときに、これに随行した。劉璋と争うようになって、卓膺は黄忠とともに兵を率いて涪に至っって占領した。『三国志演義』では、劉璋配…

姜維伯約きょういはくやく

姜維、字を伯約といい、天水郡冀県の人である。父は姜冏。幼くして父を失い、母と暮らした。鄭玄の学問を好んだ。郡に出仕して上計掾となり、州に召し出されて、従事に任命された。父の姜冏は昔、郡の功曹であったとき、羌族の反乱に遭遇…

夏侯蘭かこうらん

夏侯蘭といい、冀州常山郡の人である。208年、夏侯惇に随従して博望で趙雲と交戦して、夏侯蘭は生け捕りにされた。夏侯蘭は趙雲と同郷の人で、幼少のころからの知り合いであった。趙雲は劉備に申し上げて夏侯蘭の命を助けてやり、夏侯…

張裕南和ちょうゆうなんわ

張裕、字を南和といい、益州蜀郡の人である。劉備が劉璋と会見したとき、張裕は劉璋の従事として側に侍していた。彼がゆたかな鬚をはやしていたので、劉備がからかって、「昔わしは涿県に住んでいたころ、特に毛姓の家が多くて、東西南北…

沙摩柯しゃまか

沙摩柯といい、武陵の蛮族王である。爵位は胡王。222年、劉備は東征して猇亭まで進軍した際、馬良を武陵に派遣して異民族を手懐けさせ、これに武陵蛮の沙摩柯らが呼応した。しかし、陸遜の火攻めに蜀軍は大敗し、沙摩柯は斬首された。…

士仁君義しじんくんぎ

士仁、字を君義といい、広陽郡の人である。劉備が旗揚げしたとき、若いころから彼に随従していた。211年、劉備が益州に入ると、荊州を関羽に委任した際に、士仁も守りとして残った。219年、関羽が樊城の攻撃に向かうと、士仁は公安…

彭羕永年ほうようえいねん

彭羕、字を永年といい、益州広漢郡の人である。211年、益州に入った劉備は翌年、また涪水を遡って漢中の張魯を討つ態勢をとった。彭羕はこの機会に劉璋を見限って、劉備に仕えて自分の運を拓こうと考え、劉備の参謀となっている龐統を…

王謀元泰おうぼうげんたい

王謀、字を元泰といい、漢嘉郡の人である。劉璋時代、巴郡大守となり、帰還して州の治中従事となった。214年、劉備は益州を平定し、牧を兼任した際、王謀を別駕とした。219年、劉備は漢中王となると、荊楚の名族で零陵出身の頼恭を…

輔匡元弼ほきょうげんひつ

輔匡、字を元弼といい、襄陽郡の人である。劉備に随行して蜀に入った。益州が平定されたのち、巴郡太守に任命された。のちに鎮南将軍に転じ、右将軍となり、中郷侯に封じられた。『季漢輔臣賛』によると、輔匡は豪気で軍事の任務につき、…

麋芳子方びほうしほう

麋芳、字を子方といい、徐州東海郡朐県の人である。兄は麋竺、妹は麋夫人がいる。194年、徐州の牧陶謙の遺命があって劉備が徐州を統治したとき、麋芳は兄糜竺とともに彼に仕えた。兄弟は劉備に手厚い経済的援助をした。196年、劉備…

陳式ちんしき(ちんしょく)

陳式といい、字も出身地も不明である。劉備が巴西に入ったとき、共につき従った。217年、陳式は劉備に随行して漢中の馬鳴閣道に赴いて防いでいたが、徐晃に敗れた。222年、劉備の東征につき従って、呉班とともに水軍を率いて、夷陵…

周倉しゅうそう

正史には記録がない架空の人物である。周倉、古典劇目の『走麦城』『収周倉』『収関平』では字は元福といい、涼州の人である。184年、黄巾の乱に参加して、後に裴元紹とともに臥牛山で山賊となった。200年、関羽が五関の六将を斬っ…

郭攸之演長かくゆうしえんちょう

郭攸之、字を演長といい、荊州南陽郡の人である。223年、劉禅が即位すると長水校尉に任命された。224年、費禕・董允と共に、黄門侍郎に任命された。227年、諸葛亮の出師の表で、費禕・董允らと同列にその名を挙げて上奏した。出…

趙累ちょうるい

趙累といい、字も出身地も不明である。劉備が巴西に入って、荊州の留守を関羽に任せたとき、趙累を都督として関羽の傍においた。219年、呂蒙、陸遜によって荊州各地が陥って関羽が敗れ、ともに麦城へ逃げた。城壁に旗やわら人形をたて…

馬岱ばたい

馬岱といい、扶風郡茂陵県の人である。従兄に馬超らがいる。222年、馬超が死去したときに、「私の一族200人余りは、ほとんど孟徳(曹操)に殺されてしまいましたが、馬岱のみが生き残っています。馬氏の祭祀を守らせる者として陛下…

高翔こうしょう

高翔といい、字も出身地も不明である。219年、劉備が漢中に進軍したとき随行して、高翔は陽安関に駐屯した。後に、魏の曹真は徐晃とともに陽安関を攻撃してきたので、これを防ごうとしたが敗退した。227年、諸葛亮の北伐に随行し、…

呉班元雄ごはんげんゆう

呉班、字を元雄といい、兗州陳留郡の人である。父は大将軍何進の属官呉匡がいる。幼いころ、劉焉が益州へ向かうとき、呉壱とともに一族で同行した。劉備が益州を平定すると、領軍に任命された。劉備が東征を起こすと、呉班は付き従って馮…

費観賓伯ひかんひんはく

費観、字を賓伯といい、江夏郡鄳県の人である。劉璋の母は族姑にあたり、劉璋のほうでも娘を娶らせた。213年、李厳の軍に参加して、綿竹において劉備に抵抗したが、李厳とともに降伏した。劉備は益州を平定したのち、裨将軍に任命し、…

王甫国山おうほこくざん

王甫、字を国山といい、益州広漢郡郪県の人である。子は王祐、従兄は王士がいる。劉璋時代、州の書佐となった。劉備が蜀を平定した後、綿竹の令となり、荊州の議曹従事に移った。劉備の呉征伐に随行し、蜀軍が秭帰で敗れた際、殺害された…

雷銅らいどう

雷銅といい、字と出身地も不明である。218年、劉備は漢中に軍を進めて、雷銅は呉蘭と共に武都郡へ駐屯した。しかし雷銅は張郃の計にはまって敗れ、軍は全滅し戦死した。『三国志演義』では劉璋配下として登場する(史実では、劉璋配下…

呉蘭ごらん

呉蘭といい、字と出身地は不明である。217年、劉備は漢中へ軍を進めて、呉蘭は張飛・馬超・雷銅と共に下弁に駐屯し、曹洪と対峙した。この時、張飛が固山に駐屯し、曹洪軍の後方を切断させようとした。曹洪と曹休は、呉蘭と張飛のいず…

張南文進ちょうなんぶんしん

張南、字を文進といい、荊州の人である。劉備が荊州を統治してから仕えた。その後、劉備に随行して蜀に入った。221年、張南は劉備の呉征討に付き従って兵三万を指揮し、馮習の副将となった。しかし、翌年に大敗して馮習とともに戦死し…

馮習休元ふうしゅうきゅうげん

馮習、字を休元といい、荊州南郡の人である。劉備に随行して蜀に入った。221年、劉備が東方呉の征討に赴いたとき、馮習は領軍将軍に任命され、諸軍を指揮した。馮習は呉班とともに、呉将の李異・劉阿らを打ち破った。222年、馮習は…

厳顔げんがん

厳顔といい、益州巴郡臨江県の人である。劉焉、次いで劉璋に仕え、巴郡の太守を務めていた。211年、劉備が蜀に入国し、巴郡まで来たとき、厳顔は胸を叩いて嘆息し、「これこそ、いわゆる一人で奥山に坐し、猛虎を放って我が身を守るよ…