傅彤ふとう(ふゆう)

傅彤といい、荊州義陽郡の人である。子は傅僉、孫は傅著・傅募らがいる。222年、夷陵の戦いにおいて、総指揮に当たった馮習や先鋒の張南らが戦死し、蜀兵の死者は数万に埋めていた。このとき、傅彤は劉備の退却を助けるため殿軍をかっ…

張苞ちょうほう

張苞といい、字、出身地は不明である。父は張飛、弟は張紹、姉か妹は敬哀皇后張氏、張皇后、子は張遵がいる。三国志に伝がなく、若くして父より先に死去しており、弟張紹が後を継いだ。『三国志演義』では、点鋼矛の使い手で張飛に劣らぬ…

句扶孝興こうふこうこう

句扶、字を孝興といい、益州巴西郡漢昌県の人である。諸葛亮の北伐に随時した。たびたび戦功をたて、後に、王平に次ぐ功名・爵位を得、官位は左将軍にまで登り、宕渠侯に封じられた。忠誠にして武勇があり、寛大な人がらであったと評され…

関興安国かんこうあんこく

関興、字を安国という。父に関羽、兄に関平、子は関統、関彝らがいる。219年、関羽が死ぬと、跡を継いだ。220年頃、馬良の後任として20歳にして侍中・中監軍に任じられた。例をみない大抜擢であったが、数年後に没した。享年不明…

関平かんぺい

関平といい、関羽の実子とされる。弟に関興らがいる。219年、荊州の孫権軍に囲まれ、関羽と共に血路を開こうと駆け抜けたところ、伏兵に遭い捕縛された。即座に首を討たれた。『正史』には、関羽伝にその名が登場しているが、詳細は謎…

費禕文偉ひいぶんい

費禕([示]編に韋)、字を文偉といい、江夏郡鄳県の人である。子は、費承、費恭がおり、娘は皇太子劉璿の妃。幼いころ父を失い、叔父の費伯仁のもとへ身を寄せた。伯仁の姑は益州の牧劉璋の母であった。劉璋は使者を派遣して伯仁を迎え…

蔣琬公琰しょうえんこうえん

蔣琬、字を公琰といい、零陵郡湘郷県の人である。子は蔣斌、蔣顕らがいる。二十歳のときに外弟(父の姉妹の子、あるいは母の兄弟・姉妹の子)の泉陵の劉敏とともに名を知られた。蔣琬は州の書佐として劉備に随行して蜀に入り、広都の長に…

孟達子度もうたつしど

孟達、字を子度といい、涼州扶風郡の人である。父は孟他、子は孟興、甥に鄧賢がいる。孟達はもとの字を子敬といったが、劉備の叔父の劉敬の名を避けて、子度と改めた。父の孟他は宦官の張譲に賄賂を贈り、涼州刺史を得た。孟達は故郷にい…

程畿季然ていききぜん

程畿、字を季然といい、巴西郡ロウ中県の人である。子は程郁、程祁がいる。劉璋の時代、漢昌の長に任命された。県には賓族が住んでおり、獰猛な種族で、昔、漢の高祖は彼らを利用して関中を平定したのであった。巴西太守のホウ羲は天下動…

陳到叔至ちんとうしゅくし

陳到、字を叔至といい、豫州汝南郡の人である。豫州の時代から劉備に随行した。223年、永安都督・征西将軍に登り、亭侯に封じられた。226年、前将軍の李厳が永安から江州に陣営を移動したが、陳到は引き続き永安に駐留し、守備を継…

向寵しょうちょう

向寵といい、襄陽郡宜城県の人である。向朗の甥で、弟は向充がいる。劉備に仕え、牙門将軍となった。夷陵の敗北の際に、向寵の軍営だけはひとり無傷であった。223年、都亭侯に封じられ、のちに中部督となり近衛兵を指揮した。227年…

呂乂季陽りょがいきよう

呂乂、字を季陽といい、南陽郡の人である。父は呂常、子は呂辰、呂雅がいる。父の呂常は旧将の劉焉が蜀に入るのを送ってきたが、道路が不通になったためそのまま帰郷することができなくなった。呂乂は孤児となったが、読書と音楽が好きだ…

馬謖幼常ばしょくようじょう

馬謖、字を幼常といい、襄陽郡宜城県の人である。襄陽の名家「馬氏の五常」の五男で、兄は馬良らがいる。荊州従事として劉備に従って蜀に入り、緜竹県・成都県の令、越スイ郡の太守に登用された。225年、諸葛亮が南中を征討したとき、…

鄧芝伯苗とうしはくびょう

トウ芝(登におおざと[鄧])、字を伯苗といい、義陽郡新野県の人であり、漢の司徒トウ禹の末裔である。子はトウ良がいる。後漢末、蜀に入ったが、知遇をうけるまでには至らなかった。当時、益州従事の張裕が人相を見るのがうまかったの…

李譔欽仲りせんきんちゅう

李セン(言偏に異)、字を欽仲といい、梓潼郡フ県の人である。父の李仁は字を徳賢といい、同県の尹黙とともに荊州に遊学し、司馬徽、宋忠らについて学んだ。李センは父の学問をそっくり受け継ぎ、さらに尹黙についてこまかい字句の解釈で…

尹黙思潜いんもくしせん

尹黙、字を思潜といい、梓潼郡フ県の人である。子は尹宗がいる。益州には今文の学(秦以降の新字体のテキストを用いる解釈学)を尊重するものが多くて、字句の正確な読みを重視しなかった。尹黙はそのような学問の狭さに気がついたので、…

来敏敬達らいびんけいたつ

来敏、字を敬達といい、義陽郡新野県の人である。後漢の来歙の末裔である。父は、霊帝の代に司空の来エン、子は、来忠がいる。漢末の大乱に遭遇し、来敏は姉について荊州に逃げた。姉の夫の黄エンの妻は劉璋の祖母の甥であったので、劉璋…

孟光孝裕もうこうこうゆう

孟光、字を孝裕といい、河南郡洛陽県の人である。後漢の大尉孟郁の一族である。霊帝の末年、講部吏となった。献帝が長安に遷都すると、そのまま蜀へと逃げこんだ。劉焉父子は彼を客礼をもって待遇した。劉備が益州を平定すると、議郎に任…

許慈仁篤きょじじんとく

許慈、字を仁篤といい、南陽の人である。子は許クンがいる。劉煕に師事して、鄭玄の学問をよくし、『易』『尚書』『三礼』(『礼記』『周礼』『儀礼』)『毛詞』『論語』を学んだ。建安年間、許靖らとともに交州から蜀に入った。当時まだ…

杜瓊伯瑜とけいはくゆ

杜瓊、字を伯瑜といい、蜀郡成都県の人である。若いころ任安から図識の術を学び、任安の技術に精通した。劉璋の時代、召し出されて従事となった。劉備は益州を平定し、牧を兼務すると、杜瓊を議曹従事に任じた。劉禅が即位すると、諫議大…

周羣仲直しゅうぐんちゅうちょく

周羣、字を仲直といい、巴西郡ロウ(ロウは門構えに良)中県の人である。父に周舒、子に周巨がいる。幼いころから周舒より図讖(としん)学を教えられ、自然現象などから未来の兆候を探る学問に専念した。庭内に小楼を作り、家が豊かで奴…

杜微国輔とびこくほ

杜微、字を国輔といい、梓潼郡フ県の人である。若いころ広漢郡の任安から学問を習った。劉璋が召し出して従事としたが、病気のため官を去った。劉備が蜀を平定すると、杜微はつねに聾(つんぼ)と称して、門を鎖し表へ出なかった。224…

費詩公挙ひしこうきょ

費詩、字を公挙といい、ケン為郡南安県の人である。子は費立がいる。劉璋時代、緜竹の令に任じられた。劉備が緜竹を攻撃した際、費詩は先んじて城をあげて降伏した。成都が平定された後、劉備は益州の牧を兼務し、費詩を督軍従事に任命し…

楊洪季休ようこうききゅう

楊洪、字は季休といい、ケン為郡武陽県の人である。劉璋の時代、諸郡の官吏を歴任した。劉備が蜀を平定すると、太守の李厳は功曹に任命した。李厳は郡役所を移転させたいと思ったが、楊洪はあくまでも諌めて譲らず、かくて功曹を辞職し、…

呉壱子遠ごいつしえん

呉壱、字を子遠といい、陳留郡の人である。父は呉夙、妹は劉備の后、族弟は呉班、子は早世したため不明である。孫に呉喬がいる。劉焉に随行して蜀に入った。劉璋時代、中郎将となり、軍兵を率いて劉備の防御に当たったが、降伏した。劉備…

陳震孝起ちんしんこうき

陳震、字を孝起といい、南陽郡の人である。子は陳済がいる。劉備は荊州の牧を担当すると、召し出して従事に任じ、管下の諸郡をとりしきらせた。陳震は劉備について蜀に入った。蜀が平定されたのち、蜀郡の北部都尉となり、郡名の変更に従…

劉巴子初りゅうはししょ

劉巴、字を子初といい、零陵郡丞陽県の人である。父は劉祥がいる。若いころから有名で、荊州の牧劉表がたて続けに招聘し、また茂才に推挙したけれども、すべて出仕しなかった。もともと、父劉祥が南陽市民に怨まれ、争って戦死したことに…

廖化元倹りょうかげんけん

廖化、字を元倹といい、もとの名を淳といって、襄陽郡の人である。劉備が荊州にいるころ、廖化は仕えて、後に前将軍の関羽の主簿となった。関羽が呉に敗北した際、呉に身を委ねて投降した。劉備のもとへ戻りたい一心で、死んだという嘘の…

張翼伯恭ちょうよくはくきょう

張翼、字を伯恭といい、武陽県の人である。漢の高祖時代に功績を挙げた張良の子孫である。高祖父は司空の張浩、曾祖父は広陵太守の張綱であって、もとに秀れた事績をあげた名門。子は、張微がいる。劉備は益州を平定し、益州牧を兼任した…

張嶷伯岐ちょうぎ(ちょうぎょく)はくき

張嶷、字を伯岐といい、巴西郡南充国の人である。子は、張瑛、張護雄がいる。張嶷は身よりのない貧しい家の出身であったが、若いころから大人と同じような気概をもっていた。二十歳で県の功曹となった。劉備が蜀を平定した際、山賊が県を…

呂凱季平りょがいきへい

呂凱、字を季平といい、永昌郡不韋県の人である。秦の始皇帝時代の呂不韋の子孫である。子は呂祥がいる。郡に仕えて五官縁功曹となった。そのころ、雍ガイらは劉備が永安で崩御したと聞くと、不遜・狡猾な態度をいよいよ募らせた。都護の…

王平子均おうへいしきん

王平、字を子均といい、巴西郡宕渠県の人である。子は王訓がいる。もと母方の家の何氏に養われてたが、後に王姓に戻った。杜コ・朴胡について洛陽に行き、校尉の官を与えられ、曹操の漢中征伐に従った。そのとき劉備に降伏して、牙門将・…

馬忠徳信ばちゅうとくしん

馬忠、字を徳信といい、巴西郡の人である。子は馬脩、馬恢がいる。若いころ母方の家で養われ、性を狐、名を篤といったが、後にもとの性に戻り、名を忠と改めた。郡吏となり、建安の末年に孝廉に推挙され、漢昌の長に任命された。劉備が東…

李恢徳昂りかいとくこう

李恢、字を徳昂といい、建寧郡愈元県の人である。甥は李球、子は李遺がいる。郡に仕えて督郵となったが、建伶の令であったおばの夫の爨習(さんしゅう)が法律違反を犯したため、李恢も爨習に連座して免官になるはずのところ、益州太守の…

黄権公衡こうけんこうこう

黄権、字を公衡といい、巴西郡の人である。子は、黄邕、黄崇がいる。若いころ郡吏となったが、州牧の劉璋が召し出して主簿に任命した。当時、別駕の張松によって、劉備を迎えて、張魯を討伐させるのがよいという建議がなされた。黄権は諌…

張裔君嗣ちょうえいくんし

張裔、字を君嗣といい、蜀郡成都の人である。子は張毣、張郁がいる。『公羊春秋』を学び、ひろく『史記』『漢書』を読んだ。汝南の許靖は蜀に入ると、張裔は実務の才があって頭の回転が早い、中原にいる鍾ヨウ(元常)の仲間だといった。…

向朗巨達しょうろうきょたつ

向朗、字を巨達といい、襄陽郡宜城県の人である。子は向条、甥に向寵がいる。荊州の牧劉表は向朗を臨沮の長に任命した。劉表が亡くなると、劉備に帰服した。劉備は江南を平定すると、向朗に荊州南部四県の軍事と民事を治めさせた。蜀が平…

王連文儀おうれんぶんぎ

王連、字を文儀といい、南陽郡の人である。子は王山がいる。劉璋の時代に蜀に入って、梓潼の令となった。入蜀した劉備は、劉璋が対立して葭萌で兵を戻し、南方へと進撃したさい、王連は城門を閉ざして降伏しなかった。劉備はその義心に感…

霍峻仲邈かくしゅんちゅうばく

霍峻、字を仲邈といい、南郡枝江県の人である。兄は霍篤、子は霍弋がいる。兄の霍篤は、郷里において私兵数百人を集めた。霍篤が死ぬと、荊州の牧劉表は霍峻に命じてその軍勢を取り仕切らせた。劉表が没すると、霍峻は軍勢を率いて劉備に…

劉琰威碩りゅうえんいせき

劉エン(エンは「王偏」に「炎」)、字を威碩といい、魯国の人である。劉備が豫州にいたころ、召し出して従事としたが、同族の姓であることと、みやびごころがあり、談論を愛好したために、親愛され厚遇を受けた。かくて劉備に随行して諸…

李厳正方りげんせいほう

李厳、字を正方といい、南陽郡の人である。子は李豊がいる。若くして郡の官吏となり、才幹によって称賛された。荊州牧の劉表は、いくつもの郡県の長を歴任させた。曹操が荊州に侵入したとき、李厳は西方の蜀へ赴き、劉璋によって成都の令…

楊儀威公ようぎいこう

楊儀、字を威公といい、襄陽郡の人である。兄に楊慮がいる。建安年間、荊州刺史の傅羣の主簿となったが、傅羣に背いて襄陽太守の関羽のもとへ赴いた。関羽は功曹に任じ、西方の劉備のもとへ使者として派遣した。劉備は楊儀と軍事や国政に…

魏延文長ぎえんぶんちょう

魏延、字を文長といい、義陽郡の人である。一隊長として劉備に随行して蜀に入り、たびたび戦功をたてたので、牙門将軍に昇進した。劉備は漢中王になると、政庁を成都に移したので漢川のおさえとして重要な将軍を用いる必要があった。人々…

劉封りゅうほう

劉封、字は不明で伝わっていない、長沙郡の人である。子は劉林がいる。本来羅候であった寇氏の子であり、長沙の劉氏の甥である。劉備が荊州にやって来たとき、まだ跡継ぎがなかったので、劉封を養子にした。劉備は蜀に入ると、劉璋は孟達…

董和幼宰とうわようさい

董和、字を幼宰といい、南郡枝江県の人である。子は董允がいる。その先祖はもと巴郡の江州の人であった。後漢末期、董和は一族をひきいて西方に移住した。益州の牧劉璋は彼を江原の長、成都の令に任命した。蜀地方は豊かであって、当時風…

伊籍機伯いせききはく

伊籍、字を機伯といい、山陽郡の人である。若いころから、同郷の鎮南将軍劉表に身を寄せていた。劉備が荊州にいたころ、伊籍はつねに往来してたよりにした。劉表が亡くなると、そのまま劉備に随行して南に向かい長江を渡り、つき従って益…

許靖文休きょせいぶんきゅう

許靖、字を文休といい、汝南郡平輿県の人である。従兄弟は人物評で有名な許劭、子は許欽がいる。若いころ従兄弟の許劭とともに名を知られ、いずれも人物評価によって評判をたてられたが、感情的にしっくりいかなかった。許劭は郡の功曹と…

簡雍憲和かんようけんわ

簡雍、字を憲和といい、琢郡の人である。若いころから劉備と旧知の仲で、つき従って転々とした。劉備が荊州に赴くと、簡雍は麋竺や孫乾とともに従事中郎となり、つねに劉備の話し相手となり、往来して使者の役をはたした。劉備が益州に入…

孫乾公祐そんけんこうゆう

孫乾、字を公祐といい、北海郡の人である。もともとは鄭玄の門下生である。孔融、陳登などと交流を持っていた。劉備が徐州の刺史に任じられたとき、鄭玄は孫乾を推薦した。劉備は孫乾を招聘して従事とした。後につき従って転々とした。劉…

麋竺子仲びじくしちゅう

麋竺、字を子仲といい、東海郡朐県の人である。妹に麋夫人(劉備の夫人)、弟に麋芳がいる。子は麋威。先祖は代々利殖につとめ、小作一万人をかかえ、資産は莫大だった。後年、徐州の牧の陶謙が招聘して別駕従事に任命した。陶謙が亡くな…