盧植子幹ろしょくしかん

盧植、字を子幹といい、涿郡涿県の人である。子は盧毓らがいる。十五歳になった劉備が盧植の門を叩いたのは、同郷の縁があったからだった。劉備は公孫瓚と同門になり、後年、この縁を頼って盧植に身を寄せたことがあった。盧植は学問を終…

張超ちょうちょう

張超といい、東平郡寿張県の人である。兄は張邈がいる。広陵太守となって、臧洪、袁綏らといった名士を招いて任用した。190年、董卓が中央政権を握り、乱を起こすと、義勇軍が結成されて兄の張邈とともに参加した。この時、諸侯同盟の…

劉繇正禮りゅうようせいれい

劉繇、字を正禮といい、東莱郡牟平県の人である。漢の高祖の孫である斉の孝王劉将閭の直系、父は劉輿、叔父は劉寵、劉韙、兄は劉岱、子は劉基、劉鑠、劉尚らがいる。劉繇は十九歳のとき、叔父の劉韙が賊の人質となった。彼はそれを奪い返…

丁原建陽ていげんけんよう

丁原、字を建陽といい、寒門の人である。南県の官吏を務めたが、のちに并州刺史となり、騎都尉となった。呂布を属官に取り立てた。霊帝が崩御すると、何進は宦官を誅殺しようと董卓・橋瑁らとともに丁原は洛陽に召し寄せられた。何進は命…

韓馥文節かんふくぶんせつ

韓馥、字を文節といい、潁川郡の人である。189年、御史中丞だったが、董卓が洛陽に入って権力を握ると、冀州牧に任じられた。当時、冀州は人口が多く、軍糧も豊かだった。渤海太守の袁紹が反董卓の挙兵に上がると、韓馥にとって気がか…

馬騰寿成ばとうじゅせい

馬騰、字を寿成といい、扶風郡茂陵県の人である。先祖は後漢の名将馬援。父は馬平、子は馬超、馬休、馬鉄、甥に馬岱がいる。馬騰は若いころ貧乏に苦しんで、いつでも彰山に入って材木をきりだしては市場に行って売っていた。涼州刺史耿鄙…

劉焉君郎りゅうえんくんろう

劉焉、字を君郎といい、江夏郡竜陵県の人、漢の魯の恭王劉余(景帝の第4子)の後裔である。子は劉範・劉誕・劉瑁・劉璋らがいる。章帝の元和年間に竜陵に国がえされ、分家がここに居を定めた。劉焉は若くして州や郡の役所に勤め、王族の…

郭汜かくし

郭汜といい、字も出身地も不明である。幼名は阿多。董卓が洛陽を焦土し東方へ軍を進めると、郭汜は諸軍をまとめ李傕とともに中牟で朱儁を打ち破った。192年、董卓が王允らに暗殺されると、賈詡の献策も用いて長安を攻撃し、これを陥落…

李傕稚然りかくちぜん

李傕、稚然といい、涼州北地郡の人である。子は李式、甥は李利・李暹・胡封(姉妹の子)、従弟は李応・李桓らがいる。192年、董卓の死によって支柱を失った李傕らは、賈詡の献策も用いて長安を攻撃し、これを陥落させた。李傕・郭汜・…

劉虞伯安りゅうぐはくあん

劉虞、字を伯安といい、徐州東海郡郯県の人である。子は劉和がいる。184年、黄巾の乱が起こると、甘陵国の相に任命された。荒廃の傷跡深い民を慰撫し、節倹を旨に指導した。後に、中央に召し出され、尚書令・光禄勲を経て宗正に転任し…

王允子師おういんしし

王允、字を子師といい、太原郡祁県の人である。若いころから高い節義を持ち、当時の名士郭林宗に王佐の才ありと認められていた。三公から属官として召しだされ、侍御史に任じられた。184年、黄巾の乱がおこると、選ばれて豫州刺史とな…

貂蝉ちょうせん

貂蝉といい、漢の司徒王允の養女で、三国志演義に登場する架空の人物である。董卓が中央政権を牛耳り、洛陽から長安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を行う為に当時16歳とされる養女・貂蝉を使い、董…

袁術公路えんじゅつこうろ

袁術、字を公路という。父は司空の袁逢、同母兄は袁基、子は袁燿、従兄に袁紹がいる。狭気があることで知られていた。孝廉に推挙され、郎中に任命され、中央と地方の職を歴任したのち、折衝校尉・虎賁中郎将となった。董卓が少帝を廃そう…

袁紹本初えんしょうほんしょ

袁紹は字を本初といい、汝南郡汝南県の人である。叔父に袁隗、異母兄に袁基、子は、袁譚、袁煕、袁尚がいる。また袁買という人物には「袁紹の庶子」「袁尚の兄の子」という二説がある。袁術は異母弟である。曽祖父の袁安は、漢朝の司徒で…

董卓仲穎とうたくちゅうえい

隴西郡臨洮の出身。字は仲穎(ちゅうえい)。父は董君雅、兄に董擢、弟に董旻がいる。名は不明だが早世した子、甥に董璜、孫娘に董白がいる。粗暴で、知略に優れ、武芸に秀で、腕力が非常に強く、馬上で左手と右手のどちらでも弓を引くこ…

呂布奉先りょふほうせん

『三国志』によると、はじめ河内に并州刺史として駐屯していた丁原に騎都尉・主簿として仕え、重用された。189年、霊帝死後の混乱の中で丁原とともに首都洛陽に入るが、中央の権力獲得を図る董卓とやがて衝突した。董卓は丁原殺害を目…

董厥龔襲とうけつきょうしゅう

董厥、字を龔襲といい、義陽県の人である。董厥は、諸葛亮が丞相であったとき、その幕府の令史となった。その後、転任して主簿となった。234年、諸葛亮の死後、段々と昇進して尚書僕射となった。258年、陳祇に代わって尚書令となり…

楊顒子昭ようぎょうししょう

楊顒、字を子昭といい、襄陽郡の人である。一族に楊儀がいる。蜀に入って巴郡太守となり、丞相主簿となった。ある日、諸葛亮が会計簿を点検しているのをみて楊顒は、「政治をやるには分担というものがあり、上下は互いに侵しあってはいけ…

卓膺たくよう

卓膺といい、字、出身地が不明である。劉備が荊州を統治するとき、卓膺は配下となった。劉備が入蜀するときに、これに随行した。劉璋と争うようになって、卓膺は黄忠とともに兵を率いて涪に至っって占領した。『三国志演義』では、劉璋配…

夏侯蘭かこうらん

夏侯蘭といい、冀州常山郡の人である。208年、夏侯惇に随従して博望で趙雲と交戦して、夏侯蘭は生け捕りにされた。夏侯蘭は趙雲と同郷の人で、幼少のころからの知り合いであった。趙雲は劉備に申し上げて夏侯蘭の命を助けてやり、夏侯…

沙摩柯しゃまか

沙摩柯といい、武陵の蛮族王である。爵位は胡王。222年、劉備は東征して猇亭まで進軍した際、馬良を武陵に派遣して異民族を手懐けさせ、これに武陵蛮の沙摩柯らが呼応した。しかし、陸遜の火攻めに蜀軍は大敗し、沙摩柯は斬首された。…

士仁君義しじんくんぎ

士仁、字を君義といい、広陽郡の人である。劉備が旗揚げしたとき、若いころから彼に随従していた。211年、劉備が益州に入ると、荊州を関羽に委任した際に、士仁も守りとして残った。219年、関羽が樊城の攻撃に向かうと、士仁は公安…

彭羕永年ほうようえいねん

彭羕、字を永年といい、益州広漢郡の人である。211年、益州に入った劉備は翌年、また涪水を遡って漢中の張魯を討つ態勢をとった。彭羕はこの機会に劉璋を見限って、劉備に仕えて自分の運を拓こうと考え、劉備の参謀となっている龐統を…

王謀元泰おうぼうげんたい

王謀、字を元泰といい、漢嘉郡の人である。劉璋時代、巴郡大守となり、帰還して州の治中従事となった。214年、劉備は益州を平定し、牧を兼任した際、王謀を別駕とした。219年、劉備は漢中王となると、荊楚の名族で零陵出身の頼恭を…

麋芳子方びほうしほう

麋芳、字を子方といい、徐州東海郡朐県の人である。兄は麋竺、妹は麋夫人がいる。194年、徐州の牧陶謙の遺命があって劉備が徐州を統治したとき、麋芳は兄糜竺とともに彼に仕えた。兄弟は劉備に手厚い経済的援助をした。196年、劉備…

陳式ちんしき(ちんしょく)

陳式といい、字も出身地も不明である。劉備が巴西に入ったとき、共につき従った。217年、陳式は劉備に随行して漢中の馬鳴閣道に赴いて防いでいたが、徐晃に敗れた。222年、劉備の東征につき従って、呉班とともに水軍を率いて、夷陵…

郭攸之演長かくゆうしえんちょう

郭攸之、字を演長といい、荊州南陽郡の人である。223年、劉禅が即位すると長水校尉に任命された。224年、費禕・董允と共に、黄門侍郎に任命された。227年、諸葛亮の出師の表で、費禕・董允らと同列にその名を挙げて上奏した。出…

趙累ちょうるい

趙累といい、字も出身地も不明である。劉備が巴西に入って、荊州の留守を関羽に任せたとき、趙累を都督として関羽の傍においた。219年、呂蒙、陸遜によって荊州各地が陥って関羽が敗れ、ともに麦城へ逃げた。城壁に旗やわら人形をたて…

馬岱ばたい

馬岱といい、扶風郡茂陵県の人である。従兄に馬超らがいる。222年、馬超が死去したときに、「私の一族200人余りは、ほとんど孟徳(曹操)に殺されてしまいましたが、馬岱のみが生き残っています。馬氏の祭祀を守らせる者として陛下…

呉班元雄ごはんげんゆう

呉班、字を元雄といい、兗州陳留郡の人である。父は大将軍何進の属官呉匡がいる。幼いころ、劉焉が益州へ向かうとき、呉壱とともに一族で同行した。劉備が益州を平定すると、領軍に任命された。劉備が東征を起こすと、呉班は付き従って馮…

費観賓伯ひかんひんはく

費観、字を賓伯といい、江夏郡鄳県の人である。劉璋の母は族姑にあたり、劉璋のほうでも娘を娶らせた。213年、李厳の軍に参加して、綿竹において劉備に抵抗したが、李厳とともに降伏した。劉備は益州を平定したのち、裨将軍に任命し、…

王甫国山おうほこくざん

王甫、字を国山といい、益州広漢郡郪県の人である。子は王祐、従兄は王士がいる。劉璋時代、州の書佐となった。劉備が蜀を平定した後、綿竹の令となり、荊州の議曹従事に移った。劉備の呉征伐に随行し、蜀軍が秭帰で敗れた際、殺害された…

雷銅らいどう

雷銅といい、字と出身地も不明である。218年、劉備は漢中に軍を進めて、雷銅は呉蘭と共に武都郡へ駐屯した。しかし雷銅は張郃の計にはまって敗れ、軍は全滅し戦死した。『三国志演義』では劉璋配下として登場する(史実では、劉璋配下…

呉蘭ごらん

呉蘭といい、字と出身地は不明である。217年、劉備は漢中へ軍を進めて、呉蘭は張飛・馬超・雷銅と共に下弁に駐屯し、曹洪と対峙した。この時、張飛が固山に駐屯し、曹洪軍の後方を切断させようとした。曹洪と曹休は、呉蘭と張飛のいず…

張南文進ちょうなんぶんしん

張南、字を文進といい、荊州の人である。劉備が荊州を統治してから仕えた。その後、劉備に随行して蜀に入った。221年、張南は劉備の呉征討に付き従って兵三万を指揮し、馮習の副将となった。しかし、翌年に大敗して馮習とともに戦死し…

厳顔げんがん

厳顔といい、益州巴郡臨江県の人である。劉焉、次いで劉璋に仕え、巴郡の太守を務めていた。211年、劉備が蜀に入国し、巴郡まで来たとき、厳顔は胸を叩いて嘆息し、「これこそ、いわゆる一人で奥山に坐し、猛虎を放って我が身を守るよ…

傅彤ふとう(ふゆう)

傅彤といい、荊州義陽郡の人である。子は傅僉、孫は傅著・傅募らがいる。222年、夷陵の戦いにおいて、総指揮に当たった馮習や先鋒の張南らが戦死し、蜀兵の死者は数万に埋めていた。このとき、傅彤は劉備の退却を助けるため殿軍をかっ…

張苞ちょうほう

張苞といい、字、出身地は不明である。父は張飛、弟は張紹、姉か妹は敬哀皇后張氏、張皇后、子は張遵がいる。三国志に伝がなく、若くして父より先に死去しており、弟張紹が後を継いだ。『三国志演義』では、点鋼矛の使い手で張飛に劣らぬ…

関興安国かんこうあんこく

関興、字を安国という。父に関羽、兄に関平、子は関統、関彝らがいる。219年、関羽が死ぬと、跡を継いだ。220年頃、馬良の後任として20歳にして侍中・中監軍に任じられた。例をみない大抜擢であったが、数年後に没した。享年不明…

関平かんぺい

関平といい、関羽の実子とされる。弟に関興らがいる。219年、荊州の孫権軍に囲まれ、関羽と共に血路を開こうと駆け抜けたところ、伏兵に遭い捕縛された。即座に首を討たれた。『正史』には、関羽伝にその名が登場しているが、詳細は謎…

孟達子度もうたつしど

孟達、字を子度といい、涼州扶風郡の人である。父は孟他、子は孟興、甥に鄧賢がいる。孟達はもとの字を子敬といったが、劉備の叔父の劉敬の名を避けて、子度と改めた。父の孟他は宦官の張譲に賄賂を贈り、涼州刺史を得た。孟達は故郷にい…

程畿季然ていききぜん

程畿、字を季然といい、巴西郡ロウ中県の人である。子は程郁、程祁がいる。劉璋の時代、漢昌の長に任命された。県には賓族が住んでおり、獰猛な種族で、昔、漢の高祖は彼らを利用して関中を平定したのであった。巴西太守のホウ羲は天下動…

陳到叔至ちんとうしゅくし

陳到、字を叔至といい、豫州汝南郡の人である。豫州の時代から劉備に随行した。223年、永安都督・征西将軍に登り、亭侯に封じられた。226年、前将軍の李厳が永安から江州に陣営を移動したが、陳到は引き続き永安に駐留し、守備を継…

向寵しょうちょう

向寵といい、襄陽郡宜城県の人である。向朗の甥で、弟は向充がいる。劉備に仕え、牙門将軍となった。夷陵の敗北の際に、向寵の軍営だけはひとり無傷であった。223年、都亭侯に封じられ、のちに中部督となり近衛兵を指揮した。227年…

呂乂季陽りょがいきよう

呂乂、字を季陽といい、南陽郡の人である。父は呂常、子は呂辰、呂雅がいる。父の呂常は旧将の劉焉が蜀に入るのを送ってきたが、道路が不通になったためそのまま帰郷することができなくなった。呂乂は孤児となったが、読書と音楽が好きだ…

鄧芝伯苗とうしはくびょう

トウ芝(登におおざと[鄧])、字を伯苗といい、義陽郡新野県の人であり、漢の司徒トウ禹の末裔である。子はトウ良がいる。後漢末、蜀に入ったが、知遇をうけるまでには至らなかった。当時、益州従事の張裕が人相を見るのがうまかったの…

尹黙思潜いんもくしせん

尹黙、字を思潜といい、梓潼郡フ県の人である。子は尹宗がいる。益州には今文の学(秦以降の新字体のテキストを用いる解釈学)を尊重するものが多くて、字句の正確な読みを重視しなかった。尹黙はそのような学問の狭さに気がついたので、…

陳震孝起ちんしんこうき

陳震、字を孝起といい、南陽郡の人である。子は陳済がいる。劉備は荊州の牧を担当すると、召し出して従事に任じ、管下の諸郡をとりしきらせた。陳震は劉備について蜀に入った。蜀が平定されたのち、蜀郡の北部都尉となり、郡名の変更に従…

廖化元倹りょうかげんけん

廖化、字を元倹といい、もとの名を淳といって、襄陽郡の人である。劉備が荊州にいるころ、廖化は仕えて、後に前将軍の関羽の主簿となった。関羽が呉に敗北した際、呉に身を委ねて投降した。劉備のもとへ戻りたい一心で、死んだという嘘の…

張翼伯恭ちょうよくはくきょう

張翼、字を伯恭といい、武陽県の人である。漢の高祖時代に功績を挙げた張良の子孫である。高祖父は司空の張浩、曾祖父は広陵太守の張綱であって、もとに秀れた事績をあげた名門。子は、張微がいる。劉備は益州を平定し、益州牧を兼任した…