朱績公緒しゅせきこうしょ

朱績、字を公緒といい、丹陽の人である。父は朱然、叔父は朱才、娘は施淑女らがいる。元の姓は施氏。父朱然が高位にあったことから郎に任ぜられ、のちに建忠都尉の官を授かった。叔父の朱才が死去すると、朱績がその兵士たちをあずかり、…

潘濬承明はんしゅんしょうめい

潘濬は、字を承明といい、武陵群の漢寿の人である。妻は蒋琬の妹で、子は潘翥・潘祕・女子一人(孫慮の妻)らがいる。二十前後のとき、宋仲子から学問を受けた。まだ三十にならないとき、荊州の牧であった劉表からまねかれて荊州配下の江…

全琮子璜ぜんそうしこう

全ソウ([王]偏に[宗])、字を子コウ([王]偏に[黄])といい、呉郡の銭唐の人である。父は全柔、子は全緒、全奇、全懌、全呉らがいる。妻は孫権の娘、孫魯班である。父親の全柔は、漢の霊帝の時代に考廉に推挙され、尚書郎右丞に…

賀斉公苗がさいこうびょう

賀斉、字を公苗といい、会稽郡の山陰の人である。父に賀輔、子に賀達、賀景がいる。虞預の『晋書』によると、賀氏は元来、慶氏という姓であった。賀斉の伯父の慶純は、学者として人々から高く評価され、漢の安帝の時代に侍中や江夏太守を…

朱拠子範しゅきょしはん

朱拠、字を子範といい、呉郡の呉の人である。子に朱熊、朱損、朱夫人(孫休の皇后)、同族に朱桓、朱異がいる。風采があがり体力があって、そのうえに人と議論をすることに巧みであった。黄武の初年、召しだされて五官郎中の官を授かり、…

張温恵恕ちょうおんけいじょ

張温、字を恵恕といい、呉郡の呉の人である。父は張允、弟は、張祗、張白、姉妹が3人いる。父親の張允は物おしみをすることなく立派な人物たちを鄭重に遇したので、故郷の州や郡ではその評判が高かった。彼は、孫権のもとで東曹掾となり…

厳畯曼才げんしゅんまんさい

厳シュン(シュンは、[田偏]に人偏が無い[俊])、字を曼才といい、彭城の人である。子は、厳凱、厳爽がいる。若い時代、学問に専念して、『詩経』『書経』、三礼(儀礼、周礼、礼記)によく通じ、加えて『説文解字』を好んだ。世の中…

潘璋文珪はんしょうぶんけい

潘璋、字を文珪といい、東郡の発干の人である。子は潘平がいる。孫権が陽羨県の長であったとき、出かけて行って目通りをし孫権の配下に入った。潘璋は気ままな性格で酒を好み、家は貧しくて、つねづねつけで酒を買い、かけ取りが家までや…

朱然義封しゅぜんぎほう

朱然、字を義封といい、丹陽郡の人である。義父は朱治、子は朱績がいる。朱治の姉の子で、元来の姓は施氏であった。朱治は、まだ子供がなかったことから、朱然が年十三であったとき、孫策に上言して、朱然を自分の跡継ぎにしたいと願い出…

甘寧興覇かんねいこうは

甘寧、字を興覇といい、巴郡の臨江の人である。子は甘カイ、甘述がいる。若いときから気概を持って、遊侠を好み、無頼の若者たちを集めて、その頭領となっていた。仲間は大勢で集団をなし、弓や弩をたばさみ、水牛の尻尾の旗さしものを背…

賈逵梁道かきりょうどう

賈逵は字を梁道といい、河東郡の襄陵県の人である。子は賈充、賈混、孫は賈南風がいる。子供の時分からいつも部隊の編成をして遊んでいた。祖父の賈習はそれを特別視して、「おまえは大きくなれば指揮官となるにちがいない」といい、数万…

曹沖倉舒そうちゅうそうじょ

曹沖、字名を倉舒という。父は曹操、異母兄は曹昂、曹丕、曹彰、曹植、曹熊、曹鑠、同母弟は曹宇、曹據などがいて、第八子である。年少ながら聡明で理解力があり、五、六歳にして、智慧のはたらきは成人のようなところがあった。当時孫権…

曹植子建そうしょくしけん

陳の思王曹植、字を子建といい、沛国譙県の人である。父は曹操、同母の兄は曹丕、曹彰、弟は曹熊、異母の兄は曹昂、曹鑠、子は曹苗、曹志らがいる。年十歳余りで、『詩経』『論語』および『楚辞』漢賊数十万字を郎誦し、文章をつづるのが…

王朗景興おうろうけいこう

王朗、字を景興といい、東海郡郯県の人である。子は王粛、甥(兄の子)は王詳、孫は王元姫らがいる。経書に通じていることから、郎中に任じられ、葘丘の長にに任命された。太尉の楊賜を師と仰いでいたが、楊賜が逝去したので、官を捨てて…

朱霊文博しゅれいぶんはく

朱霊、字を文博といい、冀州清河県の人である。そのむかし、朱霊は袁紹の将軍であった。清河の李雍は袁紹にそむき公孫サンに降伏した。公孫サンは兵を派遣して彼を護らせた。袁紹は朱霊をやって彼を攻撃させた。朱霊の家族は城中にいた。…

陳泰玄伯ちんたいげんはく

陳泰、字を玄伯といい、潁川の人である。父は陳羣、子は陳恂、陳温がいる。青龍年間、散騎侍郎に任命された。正始年間、游撃将軍に移り、并州の刺史となり、振威将軍の称号を加えられ、使持節・護匈奴中郎将となって、異民族を手なずけ、…

董昭公仁とうしょうこうじん

董昭、字を公仁といい、済陰郡定陶県の人である。子は董冑、弟は董訪がいる。孝廉に推挙され、県の長、柏人の令に任命された。その後、袁紹は董昭を参軍事とした。袁紹が公孫サンを界橋に迎え撃ったとき、鉅鹿の太守李邵をはじめ郡の役人…

臧覇宣高ぞうはせんこう

臧覇、字を宣高といい、泰山郡華県の人である。子は臧艾、臧舜らがいる。父の臧戒は県の獄長となったが、法をたてに太守がかってに人を殺そうとしたのを聞き入れなかった。太守はたいそう腹を立て、臧戒を逮捕して役所につれてこさせた。…

典韋てんい

典韋、字は不明で伝わっていない、陳留郡己吾県の人である。子は典満がいる。容姿はりっぱで、筋力は人なみはずれて優れ、固い節義とおとこぎの持ち主だった。襄邑の劉氏は李永と仇敵の間がらであったが、典韋は彼のために報復してやった…

賈詡文和かくぶんわ

賈ク(クは言偏に羽)、字を文和といい、武威郡の姑臧県の人である。子は賈穆、賈訪がいる。若いとき認める人はいなかったが、ただ漢陽の閻忠だけは彼を評価し、賈クには張良や陳平(前漢高祖の策士)のような奇略があるといっていた。孝…

夏侯淵妙才かこうえんみょうさい

夏侯淵、字を妙才といい、夏侯惇の族弟であった。子は、夏侯衡、夏侯覇、夏侯称、夏侯威、夏侯栄、夏侯恵、夏侯和。曹操が故郷にいたころ、県の長官にまつわる事件で罪になったことがあった。夏侯淵は身代わりとなって重い罪を引き受けた…

夏侯惇元譲かこうとん(かこうじゅん)げんじょう

夏侯惇、字を元譲といい、沛国ショウ[言焦]県の人で、夏侯嬰(前漢黄祖の将軍)の後裔である。曹操と夏侯淵の従兄弟に当たる。子は、夏侯充、夏侯楙、夏侯子臧、夏侯子江。弟に夏侯廉がいる。演義では夏侯恩という弟も登場する。十四歳…

江利チエミ

歌手。代表曲は『テネシーワルツ』。本名は久保智惠美。高倉健と結婚するも、義姉・吉田よしこが横領事件などを起こしたため、高倉健への影響を考え、江利側から離婚を申し入れる。死因は脳卒中と吐瀉物が喉に詰まったことによる窒息死。…

白鳥由栄

4回の脱獄をしたことで知られ『昭和の脱獄王』の異名を持つ受刑者。うち、1回は脱獄不可能とされた網走刑務所であり、刑務所の採光窓から白鳥が脱獄するシーンは、網走にある監獄博物館で現在再現されている。当時としては179cmと…

西口彰

裁判所の判決文で『悪魔の申し子』とも形容された、戦後の犯罪史に残る連続殺人犯。天性の頭の切れと弁才で、大学教授や弁護士などの身分を騙り、わずか77日間の間に計5人を殺害し強盗を繰り返した。当時、急速に発達した道路整備や自…

小林カウ

日本における戦後初の女性死刑囚。ホテル日本閣の乗っ取りをはかり、雑用係だった大貫光吉とともに経営者夫婦を殺害した通称『ホテル日本閣殺人事件』の犯人である。また、前夫を青酸カリで毒殺したことでも逮捕後の裁判で明らかになり、…

濱谷浩

写真家。おもに日本と日本人を対象にした報道写真を発表し、多くの問題提起を行う。代表的な写真集は『裏日本』『雪国』『見てきた中国』『怒りと悲しみの記録』『日本列島』など。写真評論家の田中雅夫は兄。

佐藤春夫

作家、詩人。小説や詩だけでなく、明治末期から昭和まで長きにわたり活躍、評論、随筆、童話、戯曲、和歌など幅広いジャンルで数多くの作品を残した。また多くの校歌を手がけたことでも知られ、さらに絵画にも造詣が深く二科展などに作品…

宇野重吉

俳優、演出家。本名は寺尾信夫。息子は俳優の寺尾聰。滝沢修とともに劇団民藝を立ち上げ、戦前から戦後にかけて、長く日本演劇界のトップランナーであり続けた。日本大学を中退後、東京左翼劇場、新協劇団などを経て、劇団民藝の創設に参…

鶴田浩二

昭和を代表する映画スターのひとり。本名は小野榮一。娘は女優の鶴田さやか。数多くの映画やテレビドラマに出演し、甘いマスクで多くの女性ファンを魅了した。また、歌手としてもその独特の歌声で人気を博し、「傷だらけの人生」など多く…

佐治敬三

サントリー創業者である鳥井信治郎の息子。サントリーの会長として、洋酒を中心に一大飲料メーカーに育て上げた。また文化事業にも精力的に取り組み、ACジャパン(旧:公共広告機構)の発起人としても知られる。一方、1988年には「…

加藤唐九郎

「現代の名工」とうたわれた陶芸家。織部焼の技術で国の無形文化財有資格者に認定されるも、8年後に永仁の壺事件で認定を取り消される。しかし、作家・山田風太郎は「この事件ののち、重要文化財級の作品を作れる男として加藤の名声はか…

江副浩正

株式会社リクルートの創業者。1988年に起きた戦後最大の贈収賄事件といわれる「リクルート事件」で翌年逮捕、14年間にも及ぶ裁判の末に有罪判決を受けた。その後は執筆業や慈善事業活動などをいていたが、2013年2月8日、肺炎…

藤圭子

演歌歌手。本名は阿部純子。前夫は音楽プロデューサーの宇多田照實。娘は歌手の宇多田ヒカル。演歌歌手の前川清も元夫である。17歳の時に出場した『さっぽろ雪まつり』のステージがきっかけでスカウトされ、1969年に「新宿の女」で…

尾崎秀実

中国問題評論家、共産主義者、ジャーナリスト、朝日新聞社記者など。新聞記者だった父に伴い少年時代を台湾で過ごす。やがて中国問題に関心を持つようになり、朝日新聞社時代には上海支局に籍を置いた。中国問題のエキスパートとなった尾…

中里介山

約30年もの長期連載ながら未完の一大巨編時代小説『大菩薩峠』で名高い小説家。本名は中里弥之助。日刊新聞「都新聞」に入社し勤務する傍ら小説を執筆し、1909年に初の連載小説となる「氷の花」を同新聞に発表した。1913年から…

御木徳一

ひとのみち教団(PL教団の前身)を興した宗教家。黄檗宗から得度し、愛媛県松山市にある安楽寺の住職を経て、移住先の大阪で御嶽教徳光大教会の教祖・金田徳光に入信、息子・御木徳近とともに徳光大教会の教師となった。徳光の死後、一…

都井睦雄

日本の犯罪史上最悪ともいわれる「津山三十人殺し(津山事件)」の犯人。わずか2時間足らずの短い犯行時間にもかかわらず、30人が死亡、3人が負傷するという前代未聞大惨事は世間を震撼させた。また、犯行の際の犯人の格好が、詰襟の…

比嘉和子

『アナタハンの女王事件』の当事者。太平洋戦争末期から終戦後、太平洋の孤島アナタハン島で起こった、女性(比嘉和子)1人と男性32人の6年間にわたる共同生活。太平洋戦争が終わったことを信じずに、比嘉和子をめぐり32人の男性は…

土門拳

戦後日本における代表的な写真家。「絶対非演出の絶対スナップ」を主張し、とことんまで「リアリズム」を追求した報道写真やスナップ、ポートレートで知られる。また、日本の伝統文化や美術に深い愛情をそそぎ、数多くの仏像や寺院を撮影…

沢田教一

日本を代表する報道カメラマン(戦場カメラマン)。 学生時代より、伝説的な戦場カメラマンであるロバート・キャパに憧れをいだき、1965年から既に全面戦争に突入していたベトナム戦争を撮影するようになる。 1965年、沢田の代…

田中康三

戦後、花形ジョッキーとして活躍した騎手、調教師。騎手としての生涯成績は2147戦294勝。1935年に騎手免許を取得し、1941年には秋の天皇賞に優勝するなど活躍したが、戦争の激化を受け競馬は1944年に休止となった。戦…

荒木伸吾

アニメ『聖闘士星矢』や『キューティーハニー』など人気アニメを担当したアニメーター、キャラクターデザイナー。作画プロダクション「有限会社荒木プロダクション」代表取締役。最大の特徴は繊細、端正な絵柄で数多くの美形キャラクター…

坂口安吾

『堕落論』『白痴』などで時代の寵児となった無頼派の作家。本名は炳五(へいご)。純文学、歴史小説、推理小説、エッセイなど幅広いジャンルの作品を残し、その後の作家たちに多大な影響を与えた。幼い頃から破天荒な性格で、早くから小…

阿部定

日本を騒然とさせた猟奇殺人事件「阿部定事件」の犯人、芸妓。江戸時代から続く畳店の末娘として生まれ、近所でも評判の美少女として育った。しかしその後、家庭内の問題などからしだいに不良少女となり、17歳の時、芸妓となった。やが…

一ノ瀬泰造

報道カメラマン。日本大学芸術学部写真学科を卒業後、UPI通信社東京支社に勤務されたが試用期間が終わると解雇され、フリーランスの戦争カメラマンとなった。1972年、カンボジアに入国するとベトナム戦争、カンボジア内戦を取材し…

澁澤龍彦

小説家、仏文学者、評論家。別名のペンネームに澁川龍兒、蘭京太郎、Tasso S.などがある。晩年の号に呑珠庵、無聲道人がある。本名は澁澤龍雄。ジョルジュ・バタイユ、マルキ・ド・サドの翻訳、紹介者として知られる。1961年…

横山ノック

お笑いタレント、元参議院議員、元大阪府知事。愛称は「ピッカリくん」「タコ小僧」「明石のタコ」「ノック先生」。本名は山田勇。落語家・立川談志の一門でもあり、「立川禿談次」という高座名もある。「三田久」という芸名で初舞台を踏…

トニー谷

そろばんをかき鳴らす芸で人気を博した舞台芸人。歌手としても活動し、「さいざんすマンボ」など数々のコミックソングをヒットさせた。本名は、大谷正太郎。トレードマークは、オールバックにコールマン髭、吊りあがったフォックスメガネ…

伊丹十三

本名は池内義弘(いけうちよしひろ)。日本の映画監督、俳優、エッセイスト、商業デザイナー、イラストレーター、CM作家、ドキュメンタリー映像作家。ちなみに、本人は名刺の肩書きに「強風下におけるマッチの正しい使い方評論家」とい…