呂岱定公りょたいていこう

呂岱、字を定公といい、広陵郡の海陵の人である。子は、呂凱(蜀とは別人)がいる。郡や県の役人をつとめていたが、のちに戦乱を避けて南へ移住した。孫権が呉の勢力を指揮するようになったころ、呂岱はその幕府に出向き、地方官の任を与…

陸遜伯言りくそんはくげん

陸遜、字を伯言といい、呉郡の呉の人である。父は陸駿、弟は陸瑁、子は陸延、陸抗がいる。もともとの名を陸議といい、その家は代々、江東の豪族であった。陸遜は、幼くして父親を失い、従祖にあたる盧江太守の陸康のもとに身を寄せて、陸…

徐盛文嚮じょせいぶんきょう

徐盛、字を文嚮といい、琅邪郡の人である。子は徐楷がいる。世の中が乱れてきたので、故郷を棄てて呉郡に仮住まいし、度胸と義気とがあることで人々に知られた。孫権が呉の勢力を取りまとめると、徐盛を別部司馬に任じて、兵士五百人を授…

顧雍元歎こようげんたん

顧雍、字を元歎といい、呉郡呉の人である。弟は顧徽、子は顧邵、顧裕、顧済がいる。蔡ヨウは、朔方郡からもどったあと、人の怨みを避けるために呉にやってきたことがあって、顧雍はその蔡ヨウから琴と学問との伝授を受けた。州と郡の役所…

孫礼徳達そんれいとくたつ

孫礼、字を徳達といい、涿郡容城県の人である。孫は孫元がいる。曹操は幽州を平定すると、召し出して司空軍謀椽にとりたてた。そのむかし動乱の時代に、孫礼の母が行方不明になった。同郡の馬台が孫礼の母を探しあてた。孫礼は家財を全部…

賈逵梁道かきりょうどう

賈逵は字を梁道といい、河東郡の襄陵県の人である。子は賈充、賈混、孫は賈南風がいる。子供の時分からいつも部隊の編成をして遊んでいた。祖父の賈習はそれを特別視して、「おまえは大きくなれば指揮官となるにちがいない」といい、数万…

司馬朗伯達しばろうはくたつ

司馬朗は字を伯達といい、河内郡の温県の人である。父は司馬防、弟は司馬懿・司馬孚・司馬馗など、子は司馬遺がいる。九歳のとき、彼の父の字をいう者がいた。司馬朗は、「他人の親を馬鹿にする者は自分の親を尊敬しない人です」といった…

任峻伯達じんしゅんはくたつ

任峻、字を伯達といい、司隷河南尹中牟県の人である。子は任先、任覧らがいる。後漢末、任峻は怯える楊原に対して「董卓に対して誰もが怒りの目を注いでいますが、まだ行動を起こさないのは、情勢がそうさせているのであって、その気がな…

史渙公劉しかんこうりゅう

史渙、字を公劉といい、沛国の人である。子は、史静がいる。若いころには任侠の徒で、男らしい性格だった。曹操がはじめて旗揚げしたとき、客分として随行し、中軍校尉を代行した。征伐に随行するときは、いつも諸将を監督し、信頼され、…

曹純子和そうじゅんしわ

曹純、字を子和といい、沛国の人である。兄は曹仁、子は曹演がいる。十四歳のときに父をなくし、同母兄の曹仁とは別に暮らしていた。父の家督を受け継ぎ、富裕な財産を有し、召使いや食客は数百人にも達していたが、曹純は規律正しくこれ…

夏侯淵妙才かこうえんみょうさい

夏侯淵、字を妙才といい、夏侯惇の族弟であった。子は、夏侯衡、夏侯覇、夏侯称、夏侯威、夏侯栄、夏侯恵、夏侯和。曹操が故郷にいたころ、県の長官にまつわる事件で罪になったことがあった。夏侯淵は身代わりとなって重い罪を引き受けた…

村山聖

天才・羽生善治のライバルとして「東の羽生、西の村山」と称されるも、29歳の若さで亡くなった棋士。師匠は森信雄。5歳の時に難病「ネフローゼ症候群」に罹患していることが発覚。5年生まで入院生活を送るが、聖少年が没頭したのが父…

平尾誠二

ミスター・ラグビーと呼ばれた日本ラグビー史に残る人物。ポジションは主にスタンドオフ。伏見工業高校では花園(全国高校選手権大会)での優勝、同志社大学では大学選手権3連覇、神戸製鋼では日本選手権で7連覇を達成と、名選手として…

原節子

昭和を代表する女優。生まれ持った清純な雰囲気と、ハーフとも噂された類まれな美貌により「永遠の処女」との評判を呼ぶ。戦前・戦後において人気を呼び、瞬く間にトップ女優を確立した。演技力については賛否あったが、『東京物語』など…

大西鐡之祐

早稲田大学ラグビー蹴球部監督、ラグビー日本代表監督を歴任した名将。1980年代のラグビードラマ『スクール☆ウォーズ』では大西をモデルにした人物(大北達之助)が、山下真司演じる主人公の恩師として登場し、「信は力なり、One…

菅原文太

昭和を代表する俳優。代表作は『仁義なき戦い』シリーズや『トラック野郎』シリーズ。特に深作欣二監督とタッグを組んだ『仁義なき戦い』は現在でも根強いファンがいるなど後世に残る作品となっている。

西口彰

裁判所の判決文で『悪魔の申し子』とも形容された、戦後の犯罪史に残る連続殺人犯。天性の頭の切れと弁才で、大学教授や弁護士などの身分を騙り、わずか77日間の間に計5人を殺害し強盗を繰り返した。当時、急速に発達した道路整備や自…

小林カウ

日本における戦後初の女性死刑囚。ホテル日本閣の乗っ取りをはかり、雑用係だった大貫光吉とともに経営者夫婦を殺害した通称『ホテル日本閣殺人事件』の犯人である。また、前夫を青酸カリで毒殺したことでも逮捕後の裁判で明らかになり、…

高橋昌也

俳優、演出家。劇団俳優座の養成所を卒業後、劇団新人会の設立に参加、その後、劇団四季、文学座、劇団雲を経て、演劇集団「円」に参加、演出家として別役実作品を手がけた。円を退団後は銀座セゾン劇場の芸術総監督を務め、黒柳徹子の主…

淡路恵子

女優。本名は井田綾子。昭和時代劇の大スター萬屋錦之介は元夫、俳優・島英津男は長男。松竹歌劇団の養成学校在籍中の1949年に黒澤明監督の映画『野良犬』に出演、銀幕デビューを果たした。以後、代表作となった”駅前シリーズ”や”…

土本典昭

記録映画監督。代表作は、水俣病の今を映した一連の作品である。

長沼健

銅メダルを獲得したメキシコ五輪日本サッカー代表を率いた監督。また、選手としても日本代表ワールドカップ予選の第1号ゴールを挙げるなど活躍した。後年は、第8代日本サッカー協会会長などを務め、Jリーグの創設や2002年日韓ワー…

朝比奈隆

世界的な評価も高かった指揮者。大阪フィルハーモニー交響楽団(大阪フィル)の音楽総監督も務めた。28歳ではじめて指揮台に立ち、誰からも教わることなく独学で第一線の指揮者となった異色の経歴の持ち主である。

島岡吉郎

明治大学野球部の名物監督。選手経験はなかったが、その熱血スパルタ指導により、秋山登、土井淳、池田英俊、辻佳紀、高田繁、星野仙一、名取和彦、鹿取義隆、広沢克己、福王昭仁、武田一浩など数多くのプロ野球選手が輩出した。

里見弴

昭和の小説家。本名は山内英夫。小説家の有島武郎、画家の有島生馬は実兄。代表作は『善心悪心』『多情仏心』『安城家の兄弟』など。作品はほかに『桐畑』『極楽とんぼ』など。映画監督の小津安二郎と親交が深く、『彼岸花』は小津の依頼…

沢村貞子

女優、随筆家。本名は大橋貞子(ていこ)。俳優の長門裕之・津川雅彦兄弟は甥にあたる。俳優の藤原釜足と離婚後、新聞記者だった大橋恭彦と再婚した。溝口健二監督の『赤線遅滞』をはじめ生涯で100本以上もの映画に出演し、名脇役とし…

笠智衆

映画俳優。生家は浄土真宗の寺で「笠智衆」は本名。『東京物語』をはじめ小津安二郎監督のほぼ全作品に出演し、味のある演技で存在感をみせた。また、一方で山田洋次監督の『男はつらいよ』シリーズにも出演し、「柴又帝釈天の御前様」役…

池田満寿夫

エロスの作家といわれたマルチアーティスト。画家・版画家・挿絵画家・彫刻家・陶芸家・作家・映画監督として、多彩な芸術活動を行った。1965年にはニューヨーク近代美術館で日本人初の個展を開催し大きな話題を呼び、版画では、ヴェ…

淀川長治

映画評論家。32年にわたりテレビ朝日の日曜21時の『日曜洋画劇場』の解説をつとめ、その穏やかな口調と熱のこもった解説は、長年お茶の間に親しまれた。とくに、決まり文句であったホラー映画の解説で多用された「怖いですねえ、恐ろ…

鶴岡一人

南海ホークスを常勝軍団に育て上げ、1733勝という前人未到の勝ち星を積み日本プロ野球史上最多勝監督となる。当初は30歳で選手兼監督として、のちに監督に専任して、22年に渡り南海一筋で指揮した。その功績は当時言われていた「…

宇野千代

明治、大正、昭和、平成と生きた作家。その生涯において、作家の尾崎士郎、画家の東郷青児、北原武夫といった有名人との恋愛・結婚を繰り返したことでも知られおり、その華やかな人生は宇野自身の先品の中でも描かれている。代表作は、市…

姫田忠義

日本各地の民族文化をドキュメンタリーとしてフィルムに収めた映画監督。映像民俗学者。100本以上にもおよぶ姫田の作品は、民俗学の貴重な資料となっている。株式会社民族文化映像研究所の名誉所長であり、特定非営利活動法人「地球こ…

木下恵介

映画監督、脚本家。黒澤明のライバルと言われた映画界の巨匠である。監督デビュー作は1943年の『花咲く港』でいきなり山中貞雄賞を受賞するという華々しいスタートを切った。なおライバル黒澤明も同年、『姿三四郎』で監督デビューを…

高橋竹山

津軽三味線の名人であり、今日では一般的となった津軽三味線の独奏を浸透させた。幼い頃に盲目となり生活のためにはじめた三味線ではあったが、北海道や東北を流し渡ったその腕は、老若男女問わず多くの人を魅了した。1963年には史上…

萩原朔太郎

「日本近代詩の父」とも呼ばれる詩人、小説家。本名同じ。少年時代から身体が弱く、神経質であったという。旧制県立前橋中学校(現・群馬県立前橋高等学校)に在学中の1902年、校友会誌に短歌『ひと夜えにし』を発表したのが処女作。…

夏八木勲

映画『戦国自衛隊』『野生の証明』をはじめ300本以上もの映画やドラマに出演し、独特の空気感と抜群の演技力で存在感を発揮した俳優。本名は同じ。なお、一時期、芸名を夏木勲としていた。慶應義塾大学文学部を中退後、劇団俳優座の俳…

青島幸男

放送作家、俳優、作詞家、小説家、政治家であり、『才人』『超マルチタレント』としてその活動は非常に多岐にわたった。まず、放送作家としてキャリアをスタートさせ、『おとなの漫画』や『シャボン玉ホリデー』をヒットさせる。また番組…

岡本喜八

映画監督。東宝にてマキノ雅弘や成瀬巳喜男、本多猪四郎、谷口千吉らを師匠として映画監督について学び、1958年に監督処女作『結婚のすべて』を発表。計算しつくされたカット割から生み出されるテンポで娯楽性の高い作品に仕上げるの…

乙羽信子

女優。夫は映画監督・新藤兼人。宝塚歌劇団26期生(同期は越路吹雪、月丘夢路、東郷晴子、大路三千緒、浦島千歌子、瑠璃豊美ら)。戦後のトップ娘役として淡島千景とともに宝塚歌劇団第一期黄金時代の中心人物となる。 宝塚退団後は大…

新藤兼人

昭和を代表する映画監督、脚本家のひとり。自らの作品へのこだわりを貫くため、独立プロダクション『近代映画協会』を吉村公三郎、殿山泰司らと設立。近代映画協会会長となり活動したことから、日本インディペンデント映画の先駆者として…

若松孝二

映画監督、映画プロデューサー。本名は伊藤孝(いとうたかし)。 高校中退後、ヤクザの下働きなど職を転々とした後にテレビ映画の助監督となる。映画監督デビュー作はピンク映画『甘い罠』。若松作品はピンク映画としてはいずれも異例の…

和田勉

演出家、映画監督。本名は「わだつとむ」。 1953年にNHKに入局。テレビドラマのディレクター、プロデューサーとして数多くの名作を世に送り出す。代表作は『竜馬がゆく』『天城越え』『阿修羅のごとく』『ザ・商社』『けものみち…

高峰秀子

戦前、戦後を通じて日本映画界に君臨した大女優。歌手、エッセイストとしても活躍した。愛称は「デコちゃん」。本名は松山秀子。夫は秀子の代表作のひとつ『二十四の瞳』で出会った映画監督で脚本家の松山善三。また、文芸春秋の編集者で…

木暮実千代

350本以上もの映画に出演した女優。本名は和田つま。夫は20歳年上の従兄・和田日出吉。女優として大成功をおさめた一方、ボランティア活動にも熱心で、実業家としての顔も持っていた。日本人離れしたルックスとスタイル、コケティッ…

今井正

映画『青い山脈』や『ひめゆりの塔』など戦後を代表する名作を監督した巨匠。数多くの社会派映画を手がけた。東京帝国大学(現・東京大学)を中退後、J.O.スタヂオ(現・東宝)企画部に入社、同期には市川崑がいた。監督デビュー作は…

池部良

映画『青い山脈』などに出演し青春スターの第一人者として人気を博した俳優、随筆家。芸術家・岡本太郎は従兄にあたる。大学卒業後、東宝に入社。最初は監督希望だったが脇役で映画『闘魚』に出演したことをきっかけに俳優となった。長身…

桑野通子

昭和に活躍した女優。1934年、松竹映画『金環蝕』で銀幕デビュー。以後、、小津安二郎や清水宏、島津保次郎といった歴史に名をのこす監督たちと仕事を重ねる。高峰三枝子や高杉早苗らとともに人気スターとして名を馳せるも、1946…

太地喜和子

本名の読み方は「だいじきわこ」。1959年に東映ニューフェイス第6期に合格して、芸名・志村妙子(しむらたえこ)としてデビューするも、なかなか芽は出なかった。1967年、文学座に入団。翌年、映画監督・新藤兼人に注目され、『…

三國連太郎

20年の長きにわたり続いた国民的映画シリーズ『釣りバカ日誌』のスーさんをはじめ数々の映画、ドラマ、舞台で活躍した名優。本名は佐藤政雄。長男は同じく俳優の佐藤浩一で、映画『美味しんぼ』で親子の役を演じ話題になった。戦後、さ…

渡辺勇次郎

昭和に活躍したボクサー。単身渡米し、サンフランシスコで働きながら本場のボクシングを学ぶ。リングネーム「ヤング・ワタナベ」で、カリフォルニア州王者になるなど活躍した。 また、日本最初のボクシングジム「日本拳闘倶楽部」を開設…